Friday, August 31, 2007

大野一雄・慶人「部屋」(2)

「部屋」の公演の頃の大野さんは、とにかく自分を問いつめつづけていた。モダンダンス界から舞踏へ移行した1959年から舞踏の経験を経て、この1966年になって初めて自分の踊りを作ろうとしていたのだろうか。

私が大野さんの共立講堂でのデビュー当時の姿は、音楽新聞の舞踊欄に掲載された写真によって知っていた。当時から大野さんは帽子が好きだったようだ。コスチュームはモダンな風で、妙に腕の長い人だな、と思った。
じっさいに大野さんを舞台の上で観たのは、1959年4月、第一生命ホールでの「大野一雄モダン・ダンス公演」でのヘミングウェイ原作による「老人と海」だった。すでに私の下でマイムとクラシックバレエを学んでいた慶人が出演していたからだ。ところがこの翌月の5月に慶人が土方巽に誘われて、同じ第一生命ホールで第6回新人舞踊公演の提出作品として「禁色」が演じられる。

これが後の舞踏の出発点となったのだが、大野さんが津田信敏、ついで土方舞踏の動きに参加することになるのは、同じ'59年10月の現代舞踊の合同公演(文京ホール)での萩原朔太郎原作による「月に吠える」以後のことである。大野さんはこの作品に出演していたが、この作品を契機にして批評家を混じえての津田信敏派と江口隆哉派の分裂が起こり、大野さんは江口門下から分離して津田信敏と行動を共にし、やがて土方の舞踏の動きに参加することになる。
大野さんが真にモダンダンスの殻から抜け出したのは1960年7月の土方巽主催「ダンス・エクスペリエンスの会」(第一生命ホール)のジュネの「ディヴィーヌ抄」に出演してからである。その後大野さんは土方の演出の下で、舞踏の三羽ガラスの大野慶人、笠井叡、石井満隆が出揃ったころは、先輩格として特異なタンゴをソロで踊ってファンを集めていた。

大野一雄・慶人「部屋」(1)

大野一雄はことばによる象徴世界の網の目の隙間に入り込んで、ことばでは解釈できない対立項の真っただ中にいるわけで、こちらがひとつの問題に意見を述べるとそれを否定し、さらに自分が思いつく意味付けも思い返して否定して、俗なことばで言うと「ああでもない、こうでもない」と“無”の奥底に沈んでゆくことになる。
それが“ことば”でなく、何かを演じようとしても、「これは違うんじゃないか」という疑問が湧いてくる。要するに、行為の道がいつまでも解決されずに永遠に続くのである。

1966年、草月会館ホールで行なわれた「部屋」の公演台本は、短編小説の名手と言われ、若くして亡くなった阿部昭に依頼したのだが、苦労して書き上げた初稿を例の通り大野さんは肯んじない。改稿しても又同じで、さすがの阿部さんも「あの人は何ですか!?」と私に怒りだす始末。それでも大野さんは意に介せず、「ああでもない、こうでもない」と考えつづけ、阿部さんの家に電話する。ちょうど阿部さんは風呂に入っていて、慌てて裸で電話口に出たらば、延々と作品について語りだして終わらない。だが、阿部さんは、向田邦子が「阿部昭の発表する作品は見逃さず読みます」というだけのことがあって、次ぎに私と会ったとき笑顔で最初に言ったことは「大野さんって、面白いですねぇ!」だった。

結局、阿部さんは意味付けなしの、A,Bという記号の2人の人物が部屋の中で行為する、その数学的な関係公式だけの台本を渡すことになる。そして演出の私自身も、ステージの上で最終的に始末がつかず、「あとは慶人と勝手にやってください」と放り出すことになる。ところが、今度は開演寸前まで一雄・慶人の親子の二人の間に激しい言い争いが続いたのである。今にして思うと、あの「部屋」はいったい何だったのだろうか。ヘーゲルの弁証法とは、「正・反・合」の公式通りには解決がつかない、事象が内に含む“矛盾”を言いたかったのではなかろうか。

Tuesday, August 28, 2007

ヒノエマタへ

私がヒノエマタでパフォーマンスのフェスティバルを行なおうと決意したのは前記のシュウ ウエムラのメイクアップの巡業後、その演出料を手にした時だった。それまで「肉体言語」の同人の間でパフォーマンスという新しい芸術形式が話題になったことがあった。また、星野共はそのイヴェントを行なうなら福島県の尾瀬沼の裏玄関にあたる檜枝岐という平家村が良いでしょう、と言っていた。しかし、実現へ向けての話し合いではなかった。

私は直観して、今だ!と思った。資金はこの金でなんとかなるだろう。夏までにまだ3ヶ月ある。その場で音響の弦間隆に車でヒノエマタまで一緒に行ってくれることを依頼した。承諾を得て早速2人はヒノエマタへ出かけたのである。
パフォーマンスが出来る場所として、河川敷、公演、公民館、神社前の広場などを、また宿泊として温泉付きの民宿と村外れの藁葺き屋根の“出づくり小屋”も宿泊として借りることもできた。それに蕎麦も美味いし、東京から遥かに離れた周りの空気は澄み切っている。

肉体言語舎が主催で、制作をscorpioが担当することに決まり、チラシを作り、関係者に伝える。パフォーマンスという新しい芸術スタイルはすでに日本にも始まっていたが、その時は各ジャンルの第一線にいる者たちにとっては、来るべき新しい道をさがすための初めての出逢いと捉えられたようだ。現地までの70人乗りのバスをチャーターした。直接、浅草からの東上線とバスで行く人もいる。
われわれはその時は観客動員のことはあまり考えなかった。ただ、各ジャンルのアーティストたちの出会いと参加だけを目的にして興奮していた。

七月堂の木村栄治

七月堂の発行人であり印刷技術者でもある木村さんは、まことに変わった人である。というより、自分の出版に対する信念を変えないという意味では変人どころか、全うな人なのだろう。木村さんが自分の同人誌を作るにあたって、自分の手で印刷機を買い込んで、編集、印刷、製本、装丁、出版のすべてをやろうとしたことから出版・印刷の七月堂が始まった。他の同人誌の印刷から出版までも請け負って商売をすることになったのだが、事が詩の出版となると詩人との間で、とくに学生が多いのだが、紙の選択、タイポグラフィー、組版などの問題で互いの主張が合わず、言い争いから、ついには木村さんの怒りが爆発することになる。いつも仕事場は戦場の雰囲気と化した。

彼は言う「私は一銭もボラないし、真面目にやっている。きちんと原価計算して、印刷代+紙代+製本代÷部数で定価が決まる。全部売れたら元がとれる」。それで同人誌のばあいは内容を見た上で、買い取りの部数を決めて請け負うことにしている。しかし編集人として木村さんの名前が出る時は事が簡単に済まないのである。70年代後半の木村さんは、依然として吉本隆明の影響から抜けきれず鬱々としていた。それを自分でどうすることもできず、はけ口として同人誌を利益なしにただ無茶苦茶に作りつづけていたのだった。

しかし、その中に四方田犬彦らの「シネラマ」から松浦寿輝らの「麒麟」がつづき、松浦寿輝の「ウサギとダンス」、朝吹亮二の「密室論」など、詩集を発行することになる。
私はなぜか木村さんに気に入られて、朝吹亮二「密室論」や薦田愛の「ティリ」の凝った箱入りの本などを頂戴した。「Jam」や「肉体言語」などを発行できたのも全く木村さんの好意によるものだった。

Thursday, August 23, 2007

Jam

Jamという機関紙があった。最初、日本マイム協会の機関紙として、scorpioが自費で発行したものだった。ところが協会の会員たちが マイム以外のアートの記事が多かったので大して関心を示さなかったのである。それだけでなく協会の集まりを持っても、ひとつのジャンルに拘りすぎていて、あまりにも視野が狭すぎるのに不満をもった勅使川原三郎、武井よしみち、“ぼっこわぱ”と私が脱会し、そのままヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルの方に移籍し 、scorpioが発行していたJamがそのままパフォーマンス活動の広報紙となってしまった。

また、Jamと「肉体言語」、それにつづいて発行された「Theater Book」がパフォーマンス活動の支持体として、またパフォーマンスの芸術宣言、あるいは批評・討論の場となった。これらの情報紙、同人誌、雑誌はすべて七月堂という詩専門の出版社の印刷部に委託し、「肉体言語」は最初の段階は七月堂が発行所になっていたが、後に肉体言語舎に変わった。「Theater Book」の発行はscorpioであった。ところが、このJam(ジャム)という広報紙はまったくの手作りではじめたもので、勅使川原三郎がアートディレクター、ライターは湯本香樹実で、編集 上野陽一 監修 及川廣信であった。ライターの湯本香樹実は当時は作曲家であったが、後に作家となった。当時はまだワープロ機も発売されていない頃で、タイプだけは七月堂に依頼し、写真はコピー機で複写し、七月堂の木村栄治氏に発行人になってもらい、木村氏自身が自分の手で無料で印刷し、後援してくれた。

Wednesday, August 22, 2007

アルトー館という名称

私は本能的にアルトーという名前をじぶんの活動体に付けたかった。たぶん、今になって思うのだが、アントナン・アルトーが彼のシュールレアリスム時代に、アルフレッド・ジャリに敬意を払って彼の劇団名をジャリ劇場と命名したように。それは他者の名を借りて権威づけるためではなく、じぶんがこれからやろうとすること、ことばを含めて身体をテーマとする課題、またそれをもとにした文化的活動へのモチーフをアルトーに負うていたからである。又もう一つ、これは私自身の内面の問題であるが、ながい間抱いていたトラウマの原因を彼の書物との出逢いによって解消してもらった感謝の気持ちからでもあった。
当時としては幾多の困難を要した海外渡航を決意し、そこでの視野と経験と帰国後の試練の時期を経て、やっと観念とことばの世界から脱けだしはじめた時、アルトー館という名称で、公演企画を行なうことにしたのである。だが、現実のアルトー館という研究所が出来上るのはそれから3年後のことであった。

公演の制作を意図したが、製作のための準備金は十分ではなかった。それは私がTVのコマーシャルや映画出演で稼いだ資金だった。場所は赤坂の草月会館にした。第1回はコンメディア デラルテの再現と、大野一雄・慶人の「部屋」、第2回は西宮正明の映像と、土方巽の「ゲスラー/テル群論」であった。そして第3回は観世寿夫作曲の新作能「花の宴(ジル・ドレー)」(作・ 高橋睦郎 演出・堂本正樹)を予定していたのだが、曲の出来上がりが遅延しているうちに、氏が逝去し、この公演は中断したままとなる。

Monday, August 20, 2007

暗黒舞踏

数年前、元藤燁子の誘いで土方巽の故郷、秋田羽後町の西馬音内(にしもない)盆踊りを細江英公、田中一光らと観に行った。その旅の直ぐ後で田中一光が逝き、元藤燁子がその後を追った。この盆踊りは生者が死者を迎えると同時に、死者が生者を呼ぶのだろうか。

人々はそれぞれ絹の端切れを縫い合わせた“パッチ”の衣装できめて、夕方から夜おそくまで優美な踊りを幻想的に繰り広げる。成人の女性は編み笠を深くかぶり、男性と未成人の女性は黒い“彦三頭巾”で顔を覆って大通りを円をつくって踊りながら回るのだ。踊りがいかにも生活にしみ込んでいる様子を観ているうちに、土方が踊りを止めきれず再度上京した気持ちが分かるような気がする。また、向こうの死の世界から、からだを斜めにして肩からするりとこちらの世界に入ってくるような、あの土方の踊りのしぐさ。それにあの死者の姿そのままの、顔を黒い紗で覆った踊りはどこかで見たような気がするではないか。そうなのだ。土方が各所で行なった異様なハプニング。人々に暗黒舞踏と呼ばれた、その動きの基本形は、黒いパンツ一つの裸形の若者たちが顔を黒い紗で覆って、まるで死の世界から復讐のため立ち上がったように、背を丸くして、互いに擦り寄って円をつくる。それを細江英公が写真に収めていたのだ。その演技者は「禁色」につづいてマイムのメンバーが行なっていた。何しろその頃は、土方には弟子もいないし技術もなかったのだ。ただやる気と観念だけでもがいていた。
帰りの列車の窓から眺めた、湯沢の山々の姿はやさしく、土方が時々見せたおだやかな踊りの線を思い起させる。あの唐突な、他者に攻撃的な土方が、案外、傷つき易い柔らかな心を持っていたのではないかと想像しながら心地よく列車に揺れていた。

1956〜60年の土方巽(4)「禁色」まで

私が1958年5 月、マイム劇団「トーキョー・コメディ」の公演で、能の「生田川」を加藤恵の翻案でヨーロッパのマイム方式によって演出したが、舞台美術のオブジェは小原庄に依頼した。そのことをあえてここに記すのは、小原庄と図師明子はこの時まではブラジルに向って出発していなかったということだ。
そして、前年10月の公演「くさりを離れたプロメテ」に図師明子が出演した時には、土方の姿を舞台裏に見かけている。土方の踊りを断念して帰郷するという決意の告白は、その時の物言いの態度から察すと、堀内、安藤のところから去るための単なる口実ではなかったような気がするが、果たしてその時の月日を推定するとなると、半世紀過ぎた今となっては無理である。だが、「生田川」の公演前後だったと思う。

その土方巽が「生田川」から5ヶ月後の1958年12月のヨネヤマ ママコの金田一京助作「ハンチキキ」(バレエ・パントマイム)の舞台に出演している。ママコは先の「くさりを離れたプロメテ」に出演しているが、いったん踊りを断念して帰郷した筈の土方巽が再び上京し、こんどはママコのスタジオに住み込む。しかし、公演が終わると、土方はママコのところからも出る。
そして、1959年5月、第6回新人舞踊公演で、舞踏の出発点となる大野慶人主演「禁色」を発表するのだ。その時、大野慶人は私のマイムのスタジオに入って未だ1年半ほどしか経っていなかった。能が“物まね”を基本としているように、ヨーロッパのダンスも本来はマイムと結合したものである。それは歴史を見れば分かることだ。土方の舞踏の出発は、マイムの“アチチュード”を土台にして、跳ばないことから始まった。

Sunday, August 19, 2007

1956〜60年の土方巽(3) 図師明子と小原庄

土方巽と図師明子の2人は堀内完・安藤三子ユニークバレエ団の団員で、小原庄は美術の仕事をしていた。小原はネオ・ダダのメンバーで、土方の後のネオ・ダダの傾向への橋渡しをすることになる。私がこのバレエ団と直接関係を結んだのは、1956年6月、湯浅譲二作曲「カルメン」に出演依頼されての時からである。

土方巽と私との関係は、堀内完、マイムでの大野慶人、マイム劇への出演と装置を依頼した図師明子と小原庄、その後になるがマイム研究所での大野一雄などを通して複雑な繋がりをもつ。前述の、土方が「ぼくは、踊りを止めて湯沢に帰ります」と告白したのは、1957年10月の図師明子が出演した「くさりを離れたプロメテ」の時でなく、翌年5月の小原庄美術「生田川」の後だったような気がする。

それは、当時まだ闇市のマーケットが残っていた国鉄新宿駅東口広場にあった屋台でのことだった。安藤、堀内、及川、土方の順に並んで話しをしていたが、話しの合間に突然、隣りの土方がそれを言い出したのである。私は思わず土方の顔を見た。彼はそれっきり黙して俯いていた。土方は確かに、掘内、安藤にとって“持て余し者”だった。それに彼は金に窮していて、図師明子に無心してはうるさがられていた。
小原がひとりブラジル行きを決意したとき、図師は「私もいっしょに行く」と言った、という。「貴方は後で土方がこんなに有名になると思っていましたか?」という私の質問に対して、図師明子の応えは、ただ顔を横に振るだけだった。

Saturday, August 18, 2007

1956〜60年の土方巽(2)とつぜん消えた女性

楠野裕司というカメラマンがいる。サンパウロに居を構えて、ブラジルと日本との間を行き来し、両国の文化交流の仕事もしている。大野一雄のブラジルへの招待公演も実現させている。ヒノエマタ・フェスティバルでの関係もあり、来日した折に時々電話で呼び出されるのだが、この日も電話があり、ただ「今日は外国の女性ダンサーがいっしょだがいいですか」ということだった。

私は出かけた。待ち合わせの場所は、私の住んでいる赤羽の、歩いて10分ばかりの居酒屋で、中に入って行くと奥まった1室に楠野と一人の女性がいた。私の姿を見るとその女性が立ち上がった。小柄で、いかにもダンサーらしいい体付きをした中年過ぎの人である。外国人と言っていたが、アジア系だな、と判断した。「Haw do you do」と挨拶したが、彼女はじっと私を見たままでいる。しばらくして日本語で「私は及川さんを知っています」と言った。私はその女性の顔をあらためて見たが覚えがない。「では、ひとつヒントを与えましょう」と、小学校の先生が生徒に教えるような口ぶりでいい、ついで私の顔の反応をさぐるように「くさりを離れたプロメテ」と、いささか緊張した声で言った。

私はその「題名」を耳にしたとたん、1世紀の時間が「今ここで」凝縮し、瞬間、頭の中がスクリューのように撹乱した。この女性は、50年前に土方巽の彼女だった図師明子なのだ。土方に見切りを付けて、とつぜん小原庄という美術家といっしょにブラジルに移住して雲隠れした女性なのだ。「くさりを離れたプロメテ」とはアンドレ・ジッドの作品で私のマイム劇の表題だった。私は図師明子をその劇の相手役として依頼したのだった。

Tuesday, August 14, 2007

批難と栄光

あれは15年ほど前のことであったか。パリオペラ座のプロマイド売り場で、衝撃を受けた私はしばらく棒立ちになったままでいた。なんと、カウウンターの後ろの壁面の上部に、オペラ座のエトワールたちの写真を従えて、ひときわ大きく大野一雄さんの写真が掲げてあったのである。まるで王座に居座るように。
私は、70年代の大野一雄舞踏講座の受講者の感想を思いだす。それは「あの人は踊りのことを何にも分かっていないですね」だった。また、60年代半ばの大野一雄が憔悴してスタジオに帰ってきた姿を思い出す。それは現代詩の協会に踊りで招かれたのだったが、「こんなものを何故招いたんだ」と幹事が全員に攻撃され、冷たい目で会場から追われる始末だったのだ。この時は土方らもいっしょだった。しかし、この後数年も経たずに、詩人だちが率先して土方、大野を讃えはじめたのだ。

大野一雄が90歳直前、シアターXでピアニストの三宅榛名との2度の競演につづいて「花火の家の入り口で」の公演を経て、神奈川県民ホールで90歳記念公演を行なう。このあたりからその後のニューヨーク公演までが大野一雄の舞踏人生の最高潮の時期だったように思う。
三宅榛名がピアノを弾く指と同じに、大野一雄は手の指を動かすことから、体内の踊りを演じていたのだった。もうすでに各指からの経絡が五臟に連結し、踊りの通路を見出していたようだった。又、この頃から幽霊に親しみを覚えはじめていた。ニューヨーク公演の時、同伴した夫人といっしょのホテルで幽霊を呼び、夫人がノイローゼになって入院することになる。帰国後半年ほどして夫人は逝去し、愛妻を失った大野一雄はそれ以後急速に力を失って行く。

大野一雄の踊りと作品

大野一雄の舞踏の素晴らしさを要約すると、前記したマニエリスム的な美的感覚のほかに、あでやかに女装するアンドロギュネス的な演技、また美と醜、優美とグロテスク、豊穣と欠落とが同居する、世界の終末の無惨な姿である。そして、それと対比するように甘い西洋へのあこがれの大正ムードの香りがただよう場面もある。舞姫アルヘンチーナへのあこがれから発して、ショパンの曲、Ave Maria、またプレスリーの歌など。それらが聴く者の遠き日の憶いを突き動かすのだ。

作品の構成、演出は、一見するとどの作品も同じ形式で、同じようにすすんで行くように見える。だが、よく観察すると同じ大野一雄が演じ、同じ構成であってもその内容は違っている。それは能の形式に似て、能は面と装束を選択し、それをもとに演者がイメージしてキャラクテールをつくり、演じるのだが、大野一雄のばあいは、それをメイクとヘアとコスチュームのアートディレクションで行なっている。その任に当たっているのは大野慶人夫人の大野悦子である。かの女は慶人と薬局を経営する傍ら、その技術を学んだ。
作品の能形式と、変身をもとにした演技展開、この2つが作品の柱となっている。

それは、もしかしたら、大野一雄の能楽師友枝喜久夫へのあこがれから来ているのかもしれない。それと、演出の大野慶人には、大仏次郎を通じての歌右衛門、また郡司正勝の「かぶき」のイノベーションなど、歌舞伎にも繋がりがあったことを知っておきたい。

Monday, August 13, 2007

大野一雄と慶人

何時頃から慶人が、父一雄の作品の演出をやり始めたのだったか。舞踏に関しては、その出発である『禁色』以来、初めの頃は慶人が花形で、父一雄は後からこの運動に加わったのだった。その内、一雄が大学の仕事を引退し、慶人が代わりに一家の支えとなって薬局の仕事に打ち込んでいる間に、70歳を過ぎた一雄の方が、第一生命ホールの公演でとつぜん有名になったのである。もうこうなると大野一雄という人は、息子に踊りの代を譲ろうなどとは考えもしない人なのである。しぜん慶人は父一雄を立てて演出の側に回ることになる。

大野一雄のこの人気の理由の一つは、土方巽との交替の意味もあった。その前に土方巽は大野一雄との分離を機に、大野慶人、石井満隆、笠井叡の3人の男性舞踏手を中心とした第一期の暗黒舞踏グループを解体した。そして目黒のアスベスト館で芦川洋子を主役に第二期の「暗黒宝塚」を連続公演し、そのピーク時にあえてそれを中断する。しかしその間、時代の傾向が代わり、土方の演出はもう通用しなくなっていた。

大野慶人の周りの人は、折角の慶人の才能が開かれぬまま、機会が失われて行くのを嘆いており、慶人自身も踊りの面では一雄の上を行ける自信があり、いつまでも一雄の支え役であることに焦燥感を抱いていた。そういうこともあって演出側から父一雄に強く当たっていた。ところが一雄が90歳になり初めた頃から事情が一変した。何かおそろしいエネルギーと底知れぬ深さを父一雄の中に感じはじめたのだ。そのことは私自身も感じ慶人と話し合ったが、そこで「親父にはとても適わない」と、彼の口から漏らすことになったのである。

大野さんという人

大野さんを“わがまま”な人だと前記したが、べつの言い方では“主体性”を持った人と言い換えることもできる。普通、主体性を持った人は、じぶんの内部の亀裂した思いを言語で統一したかたちで自己表出するのだが、それが大野さんのばあいは矛盾が残ったままでいる。
たとえば、ヘーゲルの弁証法は、一般には“正・反・合”の統一までの論理的プロセスとして理解されているのだが、これを相反する二者対立の矛盾のまま合一しないものと解釈する立場もある。大野さんの立場はそれに当たるので、相反するものの真ん中をとって無理に合わせることをしない。主体のない、ことばの解釈に準じて相手と融合することを嫌っているのだ。矛盾のまま“合”を永遠に延期させているのだ。

大野さんは、言語の抽象化に頼ることをしない。“お母さん”の胎内と結ばれた実在としての身体感覚だけをじぶんのエリアとし、それを土台に生活し表現しているのだが、矛盾が起きたばあい、あくまでもじぶんの身体に問い、それでも解決できぬものは、物と身体の現実世界の向こう側にいる、現実世界の現象ぜんたいを形象化した姿と考えられる“神”を信じるほかないのである。

そこに行く過程として、無私と無欲の自然体としての老子の“無”の生活が適応するのだろう。そして、最終的にキリスト教を信じることに自分の支えを見出そうとするのだが、大野さんのばあいは、じぶんが戦争中召集され、憲兵将校であった体験から来る罪の意識が、じぶんをあえて“ユダ”だと言わせているのではなかろうか。

Sunday, August 12, 2007

細江英公の写真展が山形県の米沢で開かれ、大野一雄・慶人、元藤燁子の3名が賛助出演するというので出かけた。開場前の下の階に入ってみると、元藤さんが踊りのための“場当たり”をしていた。大野さんは何処ですかと尋ねると、多分2階でしょうと言うので、階段を上ってゆく。2階の楽屋では慶人が準備していて、誰もいない会場の長椅子に大野さんが一人で背を丸くして、そざいなげに俯いている。さっそく隣りに坐って「大野さん、今日は何を踊るんですか」と訊いたところ、ちょっと戸惑いながら「いや、踊らせてくれるかどうか」と以外な返事が返ってきた。そこで「何をいうんですか。大野さんに踊らせないで、わざわざここまで連れてくる訳がないじゃないですか」というと、黙って考えている。

やがて大野さんは、米沢に来るまでの列車の窓から見た雲の美しさについて延々と語りはじめていた。「それで、何を踊るんですか」と私が又問うと、「いや、何を踊ったらいいのか」という。「だってもう始まるまで、もう3時間しかないんですよ。そんなに感動していたら、その雲にしたらどうですか」。無責任というより、切羽詰まった感じで断定的に言うと、大野さんは唇に微笑みを見せていた。

その日の大野さんの「雲」の踊りは素晴らしかった。大野さんの弟子に向っていう褒めことばを真似して言うと、「まるで雲そのもの」で、大野さんが描いた雲で会場が充満し、そこへ上半身裸で現れた慶人は「まるで雷さまそのもの」であった。

Saturday, August 11, 2007

孤立の佇まい

大野さんは、踊りの仕事のとき以外は、まったく目立たない存在として片隅に居る。只そこに、こつねんとして“非存在”としている。70歳を過ぎてから大野さんは世間的に有名になり、それから間もなく世界の舞踊界のトップの座に位置することになるのだが、そうなっても偉ぶることは微塵もなく、以前と同じように普通の人という感じで、目立たず只そこにいる居るという感じなのである。

大野さんのからだは自然態で、つねに自分とからだを密着させたかたちで踊りを待ち受けている。大野さんの踊りは音楽によってロマンと結びつくことはあっても、つねに実在的である。しかし、大野さんはクリスチャンで、老子の思想も受入れているので、踊りは直ぐこの実在の体からすり抜けて、無の状態になり、またスピリチュアルに上昇する。

大野一雄を“向こう側の人”というのは、象徴世界の対象である、現実世界の人だというのでなく、踊りの時だけでなく、日常でも現実世界の隙間から空白のスペースに落ち込んで、混沌とした無の状態にいる、ということである。内部が、いろいろな欲望で亀裂していて、纏まらずに無の混沌の状態にあるのだが、言語によってそれを同一化することはせず、大野一雄のばあいは宗教心でそれを抑えようとしている。
だが、大野一雄は熱心なクリスチャンだが、自分のことを“ユダ”だと称する。
また、女装して『花のノートルダム』の世界を踊るのである。

Thursday, August 09, 2007

大野さんの “無”

大野一雄を向こう側にいる人と想定してみると、元藤燁子さんが亡くなる前年に、突然「及川さん、大野さんの踊りを良いと思ったことがありますか?」という不思議な質問を受けて、戸惑ったあげくあげく「90歳を越えてから良いと思いました」と応えたのだが、それ以前の大野さんの踊りに明確に向こう側の踊りだと判断することを出来ずにいた。

アルトー館主催の「部屋」での共同作業のとき、こちらが言うと、ことごとに「いやー」と疑問をもって否定するので、最後には腹を立てて「大野さん、それじゃ猿が “なまねぎ”の皮を一枚々々皮を剥いて行って最後には何も残らないのと同じでしょう」と言ったこと。
また、翌年のアルトー館主催の土方巽主演の「ゲスラー/テル群論」の後、アスベスト館で土方、大野の2人が交互にワークショップを開いて意見交換した末、土方が怒り出して「大野さんには何にもない」と言って目黒派と上星川の2派に決別する結果になったこと。

しかし、大野さんにとってはこの「無」が大切だったのに違いない。こうしてみると土方巽と大野一雄はまるで近親関係のように秋田の同族の地への執着によって結ばれていたのだが2人の立場はやはり違っていた。土方巽は対象を詩的に解釈するのに対して、大野一雄のばあいは無の空間が対象だったのである。その後、数年経って訪ねた上星川の家で、大野さんと2人で話し合ったとき「私は老子の本を読みはじめているんですよ」と楽しげに語りだして、いつまでもその話題からはづれない。こちらが話題を変えても「そうですか」とそっけなく応えて、直ぐまた老子の話に戻して思いがそこから離れない風だった。

“向こう側の人” 大野一雄

大野一雄さんという人はほんとうに分からない人なのである。向こう側の人なのだ。何しろ、おふくろの胎内から出て、今でもへその緒で結ばれているような人なので、こちら側からは、というより理屈では理解できないところがある。それはどういうことか?常識の判断では難しいことなのだが、事を逆転させてみると、なるほどと納得がいくかもしれない。

こう説明してみよう。われわれはことばで話し、言語で物事を解釈し、理屈を言う。すべてがそれで了解されて事が運ぶのだが、それでも、実はまだ残余の部分がある。言語の網の目から漏れている、まだ解釈されていないものを含んだ、われわれの言葉では掬いきれぬ大きな実体が向こう側にあるのだ。
この言葉やカテゴリーなどによって対象を指示命名し、関係づけ、分節し、解釈し、意味づけて、その対象の実体に対する象徴世界の中でわれわれは生活しているわけである。この象徴世界の向こう側の対象の実体をカントは「物自体」と名付けたのだが、フロイドの後のラカンやジジェクはこの隠されている実体を<現実界>としたのである。ここで現実がこちら側から向こう側に移動し、現実が逆転したのである。とすると、大野さんは向こう側の<現実界>に立っているということになる。

しかし、この<現実界>に立ったばあい、意味と判断がつかない矛盾のただ中にいるわけで、対立した思考がいつまでも解決されず、反問しつづけることになる。逆の立場で、向こう側から迷路を辿ってこちら側の網の目にむすびつくかが問題なのである。

Wednesday, August 08, 2007

大野一雄の“降神術”

大野一雄が最初問題にしたのは「皮膚感覚」だった。モダンダンスも舞踏も、それまで誰も気を向けていない事だった。1960年代の半ばの数年間、大野一雄は日本マイム研究所の土曜日のクラスを受け持っていたが、授業内容はいつも同じ2つのテーマだった。

1つは、じぶんは眼が見えないと仮定して,からだの皮膚全体で空間に触りながら前へ進んでゆく。からだの部分々々の“しこり”をほどいて、どうしたら瞬間的に皮膚で触覚を感じとれるかを試みる。

もう1つは、例えば、鳥になれ、馬になれ、また“ひらめ”になれ、とその日によって出される題はちがうが、「動物への変身」がテーマ。
これは、しばらくの心の準備の後、ハイ! という合図で、全員演技しながら前へと歩みはじめ変身に努める。この間、大野一雄は槌で床を小刻みに叩きながら、時々声も発し変身へと導こうとする。
しかし、大野一雄のばあいは、フォルムでまねる術を選ばないから、演ずる者は内部の変身にもだえるのだが、外見からは一向に変身した姿には見えない。スタジオ内は、まるでアルトーの“器官なき身体”から、“降神術”による変身の実験室の様相を呈する。レッスンの後は、男より、とくに女性のばあいは、心理的に入り込む度合いが深いせいか、極度に疲労して口も利けない。

今考えると、大野一雄はこの皮膚と変身との関係、触覚と他の視覚・聴覚・味覚・臭覚との通底路をどのように捉えていたのだろうか。

大野一雄と“ひらめ”

大野一雄の踊りを解くことは難しい。それを解明できるのは、長いこと氏に付き合って、ちょくせつ氏の言動に触れることが必要なのかもしれない。以下、感じるまま、私の大野一雄論を断片的に語って行きたい。それが舞踏を継ぐ者たちにとって何らかの参考になればと思う。

大野一雄には「お母さん」という作品がある。
彼にとっては、お母さんはこの世のすべてに値するものだった。できれば、再びお母さんの胎内に戻ることが念願だった。冥界から出て再び冥界に戻る。これがすべての人間のすすむ経路なのだが、大野一雄のばあいは、それが踊りで実践される。
そのお母さんが、ある日、“踊り”の本質を彼に教えて下さった。両眼ともからだの左側面にある“ひらめ(平目)”が、海底に砂をかぶって横たわっている。両眼のある暗褐色の左側面を上に、眼のない白い右側面を下にして。そこで突然、周りに異変を感じた“ひらめ”は砂を蹴って、上へ向って身をくねらせて舞いあがる。これが“踊り”だ、と。
大野一雄はこれを、“ひらめ”の代わりに“かれい”と言ったりする。2つとも平目科なのだが、“かれい”のばあいは、両眼は反対の右側面にある。右側面は黒色で、左側面は白である。

大野一雄の踊りは、嵩じてくると、つねにS字を描いて上方に向う。それはエル・グレコの絵の構図に似ている。

勅使川原三郎と日本マイム研究所(3)

大野一雄さんは付き合ってみると、随分我が儘なところがある人で、じぶんのいろいろな分裂した欲望をひとつにまとめることが難しかったのだと思う。言ってみれば、ジジェクの<想像界=鏡像段階>に相応するが、滝沢修や友枝喜久夫への思いの例も、鏡を見ながら自画像を描くときのように、理想的な他人の姿に自分を写しだして、対象と同化しながら自己の内部の統一を計っていたのだと思う。
舞踏家大野一雄のばあい、一般には何てこともないものが、彼によって突き詰められた結果、思わぬ価値を見出してくるのだった。大野一雄については、正直に言って長い間、この人はいったいどういう人なんだろう、この踊りはいったい何なんだろうと、思いあぐねてきたところがあった。私以上に付き合ってきた元藤燁子にしても同じ思いを告白したことがあった。

大野一雄については、この難問のまとめとして、舞踏 土方巽と並列して舞踏 大野一雄のカテゴリー(ラベル)をつくるので、それを参考にしてもらいたい。さて、話を勅使川原三郎に戻して、その後の彼との付き合いからヒノエマタ フェスティバルに至る道を急ごう。
勅使川原三郎に仕事の呼びかけをしたのは、表参道のシュウウエムラ ビュティー ブティックの開店1周年記念行事としてのメイクショーの巡業公演のときだった(1953)。これはメイクショーといってもSFサスペンスの体裁をとったものだったが、その場面のつなぎが勅使川原の役だった。長崎から仙台までの7ケ所を巡る公演の間、私と彼は毎夜、マイムの技術と将来の展望について語り合った。その時のマイムの“人形振り”から宇宙人への変身技術が発案され、彼の独自なダンスへの出発となった。

Tuesday, August 07, 2007

アントナン・アルトー Antonin Artaud

アントナン・アルトーとの精神的な出逢いは、戦後間もなくと言ってもいい頃だった。当時私は旧姓高校の“文丙”というフランス語専攻のクラスに在籍していたが、妙なことがきっかけで演劇部に入ることになり、事のついでに開校したばかりの舞台芸術学院の夜学にも通うことになる。それで紀伊国屋書店を通じてコポー、デュラン、バローなどの演出台本をフランスから取り寄せて読んでいたのだが、やがてバローの『Reflexion(回想)』という本を注文したのである。それは著者であるジャン・ルイ・バローが自分の演劇の経歴と俳優術について語っているのだが、シャルル・デュランの下で学ぶところから始まって、エチエンヌ・ドゥクルーに誘われていっしょにマイム術を研究し、やがてアントナン・アルトーと出会い、アルトーが独自の呼吸法や演技術を彼に伝授する段階で、この不思議なアルトーという人物の霊感に打たれたのだった。

その後、私はクラシックバレエにまで足を踏み込み、パリのレオ・スターツのコンセルヴァトワール(ベジャールの出身校)に留学することになるのだが、ついでに日本にまだ知られていないマイム技術を仕入れることも必要かと思い、エチエンヌ・ドゥクルーの学校にも通うことになる。そして、バローの演劇を観ながらも、すでに亡くなっていたアントナン・アルトーの足跡を辿ることを忘れなかった。私は、もし“身体哲学”というものがあるとしたら、また、東西の「身体メソッド」を比較する学問があるとするなら、その出発点としてアルトーの身体観から始めようと決意した。帰国後、私はアルトー館という名前でプロデュースし、アルトー館という研究所も創った。

勅使川原三郎と日本マイム研究所(2)

当時、大野一雄はなぜ滝沢修に熱中していたのか。それは私にも納得ができる。というのは、私自身も演劇青年だったころ滝沢修の演技に憧れていたのだ。私のばあいは、滝沢修の舞台演技より、むしろ彼のリアリティの部分をもっとも発揮した吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」の演技だった。滝沢修は『俳優修行』という本も出していたが、彼ほど身を徹して俳優術に打ち込んでいる人はいなかったろう。昨日のブログに、大野一雄は滝沢修の演技を「研究」していた、と記したが、大野さんの「研究」というのは独特で、研究した結果が出るというのではなく、ああでもない、こうでもない、と反問しているうちに“無”に辿りつくようなもので、その間に対象と同化してしまうのである。こう書いてしまうと。大野一雄の舞踏の姿の中には、どこか滝沢修と友枝喜久夫の面影が見えるような気がする。

それは実体の重さを感じさせない、精神の“軽さ”なのかもしれない。滝沢修がステージで椅子に腰掛けたばあい、身の重さを椅子にあづけるようなことをしない。優れた茶道の師匠が坐して点前をするとき、腰を浮かして脚とお尻の間に隙間を持たせるのと同じである。

勅使川原三郎が日本マイム研究所に入った頃は、たぶん大野一雄は講師の座を去っていたような気がする。慶人が私のところにマイムとクラシックバレエを学びに来た時は、まだ17歳だったと思うが、日本マイム研究所ができる2年前だった。慶人はそのまま日本マイム研究所の一期生として在籍する。勅使川原と大野親子が初めて対面するのは、第4回のヒノエマタ フェスティバルの神社前広場での競演の時だった。

Monday, August 06, 2007

勅使川原三郎と日本マイム研究所(1)

ヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルの前段階として、勅使川原三郎と日本マイム研究所のことを話しておくのも必要かと思う。日本マイム研究所は1960年に新橋の田村町に、舞台美術家協会会長の吉田謙吉(築地小劇場の第1回公演「海賊」の舞台装置家、川端康成の「伊豆の踊り子」の初版本装釘家)の後援によって設立された。私がその初代所長に任命されたのだが、週三回のレッスンの内、火・木は私が教え、土曜日は最初の2年間は安藤信也(早稲田大学教授、“アンチ・テアートル”の日本への最初の紹介者)が、安藤が演劇博物館長に任命された後は大野一雄が担当した。

一般に、マイムというとパントマイムのイメージを抱くが、私と安藤はエチアンヌ・ドゥクルー(ジャン・ルイ・バローとマルセル・マルソーの師)の下で学んだ経験を持ち、最初はそのメソッドに準じていた。それはからだと動きの分析を主体とするものであった。大野一雄はその頃はモダンダンスから舞踏に移動し、土方巽に提出されたジュネの作品に啓発されていたが、もともとマイム的なダンサーであり、新劇の名優滝沢修の演技を“研究”していた。その後、彼の崇拝の対象は能の喜多流の友枝喜久夫に移る。
勅使川原三郎がこの日本マイム研究所に在籍したのは、私が8年間所長を勤めて京都に移住した後の佐々木博康所長の時代で、かれと最初に出会ったのはマイム劇団「気球座」(早逝した並木孝雄が主宰。ヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルに2度参加)がプロデュースした公演の時で、彼のシュールレアリスティックな作品に感銘を受けていた。かれはすでにクラシックバレエの技術を習得していたし、美術的センスにも優れたものを持っていた。

Saturday, August 04, 2007

同人誌「肉体言語」

scorpioの事務所は「肉体言語」を発行する肉体言語舎と同居していた。「肉体言語」という雑誌は星野共が発行人で、彼が早稲田大学在学中に仲間とつくっていた同人誌で、私が誘われて入った時はだいぶ経ってのことで、その後、星野共、及川廣信、船木日夫、芦田献之の4人が編集同人となった。依頼された執筆者は北山研二、太田省吾、市川雅、沼野充義、服部幸雄、佐藤重臣など錚々たるメンバーであった。雑誌の特徴は演劇、舞踏などパフォーミングアーツを対象にしながら、現代詩のほかにバタイユ、アルトー、ルーセルなど思想的な文学者を紹介した。

雑誌のコンセプトはその雑誌名が示す通り「肉体を言語化する」ことで、フランス語のlangage corporelle(ランガージュ コーポレール 身体言語)に相応する。フランスの構造主義の影響下に生まれた新言語だ。ただ、この「肉体言語」は身体でなく肉体という語を使っているところが、出発時の60年代的ニューアンスを含んでいる。

同人の星野共は理工科、及川廣信はフランス哲学、芦田献之はインド哲学、船木日夫は美術批評の出身で、星野共と芦田献之は舞踏の大野一雄に肩入れし、及川廣信と船木日夫は演劇とダンスの全般を観るという傾向にあった。一方、星野共はバタイユ、及川廣信はアルトー、北山研二はルーセルの紹介の任に当たった。私の編集した11号の「特集 アントナン・アルトー」は1983年10月10日が発行日で、ちょうどヒノエマタ パフォーマンス フェスティバルが開かれた前年に当たる。 

Friday, August 03, 2007

scorpioの成り立ち

scorpio初期のメインプロジェクトであるパフォーマンス フェスティバルのことを先ず語りたい。だが、その前にscorpioの成立と、シュウ ウエムラとの関係について述べておかなくてはいけない。scorpioは中野の丸井本店の駐車場に面した中野住研コーポの5階にあった。雑誌「肉体言語」の発行人であった星野共が持ち主である住宅用のマンションの一室を借りて事務所に使っていた。その頃、プロデュースの仕事は、やる気があればそれなりに仕事がとれる状況であったが、結局いちばん思うように仕事ができ、アートにも近いシュウ ウエムラの仕事一本に絞ることにした。

shu uemuraすなわち植村秀は、ハリウッド帰りのメイクアップ アーティストで「ジャパン メイクアップ」という会社をつくっていた。化粧品メーカーというよりアトリエ メイドのハイレベルの化粧品を、美容師さんにメイクアップの技法を教えるのと平行して美容室に化粧品の販売を依託していた。私はウエムラがシャンソンを歌っていた時から友人だが、彼がつくった日本メイクアップ協会の事務局長に依頼されてからは、メイクアップショーの演出から始まり、メイクアップスクールとエスティティックの準備、1983年には表参道の最初のビューティブティックの開店まで手伝うことになる。

だが、これらのことがその後のフェスティバル製作にどれほど役に立ったか知れない。たとえば、当時私の技術面の片腕だった弦間隆がパフォーマンス フェスティバルや東京アートフェスティバルを支えてくれなかったら当時のプロデュースの仕事は不可能だったろう。

Thursday, August 02, 2007

“reflexion(回想)”

このブログは1年前に書き出されたままで、そのまま放り出されていた。理由は私自身の入院とその後の体調不全のためもあったが、scorpio自体がこの2年間ほど何も活動せずに来たためでもあった。その間、いろいろ考えたこともあり、時代にそったかたちでscorpioをどう復活させるかが目前の課題ともなっている。
1984年以来のパフォーマンス運動を、90年代のブランクを越えて、今の現代美術、マイクロ・イベントとしてのパフォーマンス、及びさまざまなサブカルチャーとの関わりにおいてどう捉えるか、またどのような歴史的な結びつき、あるいは切断がその間にあるのか。これが現代という基盤を再解釈しようとする理由である。

そういう意味から、この1年間放っておいたこのブログの書き出しをそのまま継続するということは、レフレクション(reflextion 回想)の意味もあり、それがそのまま現代の社会学者が唱えるReflexion(歴史的回帰)にも適用するもので、われわれにとって必要なことなのだ。歴史を考えるいうことは、自ら反省するすることでもあるからだ。
80年代がポストモダンの時代といわれ、近代が終わって近代以後の新しい社会構造体に向うかのような幻想を抱いたのだが、それは後期資本主義社会の折衷的な表層の姿に過ぎなかった。依然として継続する近代というものに気づき、進むことを一旦止めて、歴史を振り返って近代の骨組みを見直そうとしているのである。解体の後には廃墟だけが残る。幾何学において、一本の線を引くことで解答を得ることが出来るように、次ぎの何かを考えること。

1956〜60年の土方巽(1)

私にとって、土方巽の本質的な部分と思われるものを知ることができたのは、1956〜60年間の彼の行動である。その間に、彼はいろいろ周囲から批難され、彼なりにも苦悶しただろうし、結果いちどは「踊りを止める」と宣言して帰郷したのだが、再度上京して舞踊界を放浪し、その間舞踊の外部の美術のネオ・ダダのメンバーにも接触し、最終的にはネオ・ダダ以前のダダイズムの舞踏家津田信敏の傘下に加わることになる。

だが、ここで往々にして現実とことばが背離するのだが、「傘下に加わる」というのは精神的な意味で、彼が津田信敏が主催する’59年と’60年の2度の「女流アヴァンギャルド公演」に大野慶人といっしょに援助出演しているということである。
それに対して、現実面はどうかというと、津田信敏の舞踊研究所なるものは、所有権はお弟子さんであり、当時、津田夫人でもあった元藤燁子にあった。ところが、この公演後間もなく津田信敏は他のお弟子さんといっしょに元藤燁子のもとから出て行ったのである。そして外見には、その後釜に土方巽が入り込むようなかたちで元藤燁子と結婚し、津田舞踊研究所が土方のアスベスト館になったという現実である。

1956〜60年の5年間というものは土方巽だけでなく、60年代に先行する「反逆と苦悶と孤独な模索」の時代だったのである。世界的な時代特徴としては“ビート・ジェネレーション”の時代である。たとえば’58年の4月には、当時異端として土方と並び称せられた若松美黄は東京新聞主催の第15回舞踊コンクールで『反逆児』という作品で入賞。同年5月には津田門下生グループ『反旗』の第1回公演が行なわれた。