Sunday, September 30, 2007

マリー・ヴィグマン

2年目のビザを取るため、いちどフランスから国外に出る必要があった。1955年のことである。パリではベジャールが「孤独な男のためのシンフォニー」でデビューし、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団のクランコはパリ・オペラ座のために「美しきエレーヌ」を創っている。一方、パリのモダンダンスといえば、まだ底辺に埋もれて、その存在すら知られていない。
私は現実のバレエよりも、その技法を創ったカルロ・ブラジス(1797~1878)の文献の方に興味を抱きはじめていた。何故こんなバレエの技法がつくられたのか。アラベスクとアチチュードはどういう意味をもっているのか。バレエの聖典といわれるノヴェール(1727~1810)の『舞踊とバレエに関する手紙』は、私にとって日本の芸能史との比較の好材料だった。日本にいた時は、コポー、デュラン、バローの演出台本を紀伊国屋を通じて取り寄せていて、パリではブレヒトの演劇に触発されたせいか、大学都市の日本館の図書館で歌舞伎の脚本にイメージを膨らませていた。

まず、ドイツのフランクフルトに降り立った。戦災の跡が生々しい。あこがれのハイデルベルクに立ち寄った後、かってノベールが本拠地とした、高地の森の都シュツットガルトに向った。坂道を散策し、下に広がる街の姿を眺めながら戦後の日本とドイツのことを考える。
ジョン・クランコがイギリスからシュツットガルト・バレエ団の芸術監督として招聘されるのは、この後の'61年のことである。ドイツのバレエはまだ黎明期のままでいる。クランコがこの地にやって来てからは、バレリーナ、マリシア・ハイデと組んで「オネーギン」「じゃじゃ馬馴らし」などの名作を生み出してヨーロッパのバレエの震源地となる。ネザーランド・ダンス・シアターのイリ・キリアン(1947~)、ハンクブルク・バレエ団のジョン・ノイマイヤー(1942~)、フランクフルト・バレエ団のウィリアム・フォーサイス(1942~)の3人の振付師が、このクランコの門下から出発するのだが、まだこの時には彼らは生まれてもいない。

シュツットガルトからの帰りに、なんとなくマンハイムの駅に降りてみる。この地を巡行したモーツアルトのことを連想したのだ。すると思いがけなく、州立劇場でマリー・ヴィグマンのモダン・ダンス公演をやっている。しかも、曲はカール・オルフの「カルミナ・プラーナ」だ。

Sunday, September 23, 2007

マルセル・マルソー

今日、マルセル・マルソーが亡くなった。テレビで放送されたそうだ。
仏式に手を合わせ、瞼を閉じて冥福を祈った。マルソーは、私が直接マイムを教わった師ではないが、ドゥクルーの“動きの芸術”の学校を紹介してくれた恩人であり、彼の舞台には教わることが多かった。祈りながら、私は彼の生前の面影を思い浮かべようとした。浮かんできたのは舞台姿ではなかった。来日公演を終えて、成田を発つ時の、待ち時間を持て余した彼が見送る私へのサービスの積もりか、こう話しかけたのだ。「ねえ君、あそこに写真があるでしょう。こうやると、動いてるように見えるんだよ。」と、写真を観ながら激しく瞬きをしたのだった。それを見て私も同じように写真に向って激しく瞬きをしたのだが、互いに競争し合うかたちになって、2人で無邪気に子供のように笑った。その時の瞬きをしつづける彼の顔が浮かんだのだ。

私はクラシックバレエを学ぶために渡仏した。しかし、それまで日本に紹介されていないマイムの技術も取り入れて来ようと思った。
1954年の春のことである。神戸からマルセーユまで貨客船で45日経った。途中、港々に1,2日停泊して貨物を下ろし、その間8人の乗船客は上陸することができた。当時、ドル制限があって、年に1度試験があり、芸術家は30人だけ私費留学を許可された。しかも1年間だけのビザで、それ以上は1度国外に出てビザを取り直さなくてはいけない時代だった。

バレエの方は予めレオ・スターツのコンセルヴァトワールに決まっていたが、マイムの方はマルソーとジャン・ルイ・バローの師である、目指すエティエンヌ・ドゥクルーの住所が分からない。3ヶ月ほど経って、マルセーユでマルソーの友人だったという女流詩人に出合う。まず、マルソーに紹介してもらって、マルソーからドゥクルーの住所を聞くことにする。マルソーの公演を観てから、楽屋に訪ねてみると愛想よく、彼が描いたスケッチなどを見せてくれた。それは彼の舞台のようにファンタジックなもので、淡い色だった。マルソーはマルセーユ時代には幼稚園で教えていた。

築地小劇場を小山内薫といっしょに創った土方与志がマルセーユに立ち寄った際、マルソーは日本の領事館の紹介で土方と会っている。マルソーは日本が好きだった。能や歌舞伎がある国はマイムの聖地のように思われたのだろう。土方与志は持参していた松井須磨子の「カチューシャの歌」のレコードを聴かせてくれた。マルソーはそれを聴いて、あこがれの日本への思いを馳せたという。

私が2年の留学を終えて帰国する前年の1955年に、マルソーが最初の来日公演を行なってマイム ブームを巻き起こしていた。2度目のマルソーの来日公演は1960年だった。私は日本マイムスタジオにマルソーを招待した。そして歓迎の意味で、生徒代表として大野慶人がマイムを演じた。先の空港での“瞬きの演技”は、この来日の時だった。
マルソーのパントマイムは彼独自のものだ。私はマラルメの詩に近いシンボリズムを感じる。

Saturday, September 22, 2007

ブレヒトからハイナー・ミュラーへ

セリフと身体を分離させたブレヒト演劇。多くの“ブレヒチアン”たちに宿題を残したまま、ブレヒト本人はこの世を去る。10年後の1964年、ジャック・ラングの国際演劇祭はポーランドのイエジー・グロトフスキイの「持たざる演劇」を招聘する。'71年には同じポーランドからタディオス・カントール、アメリカからロバート・ウィルソン、日本からは寺山修司を招待する。この頃から演劇の身体性は言語から独立して歩きはじめ、'80年代半ばまで、対立するセリフと身体は葛藤を演じつづけるのである。それに、イオネスコの“アンチ テアトル”とベケットの演劇。アントナン・アルトーの演劇論の再認識が拍車をかける。

日本でも、それと連結する現象が '67年から起こっている。“全学連”と舞踏の動きに触発された寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」と太田省吾の「転形劇場」。それに鈴木忠志の「早稲田小劇場」と佐藤信の「黒テント」の創造活動である。

さて、'68年のパリの“五月革命”の嵐に煽られて、アヴィニヨン・フェスティバルを先頭に世界各地に乱立してフェスティバルが開かれるのだが、セリフを見失い、迷子探しの演劇がひとつの山を越えて、衝撃的なかたちで現れたのはハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシン』という脚本であった。
計らずも、ハイナー・ミュラーは東ベルリンのベルリーナ アンサンブルのブレヒトの後継者だったのは皮肉なことだ。演劇の再生を待ち望んでいた批評家の西堂行人は早速、「ハイナー・ミュラー研究会」をつくり、演劇運動の核とする。だが、従来の演劇の枠に治まることを敢えて承知しない豊島重之は「絶対演劇」を宣言する。一方、清水信臣の「解体社」は身体的なグロトフスキイ、カントール、ヤン・ファーブルの線をストイックに守りつづける。

Thursday, September 20, 2007

ベルトルト・ブレヒト

1954年の春、パリに到着してみると、街の壁に取り残されたポスターが貼られたままでいる。ブレヒトが率いる“ベルリーナー アンサンブル”の「肝っ玉おっ母とその子どもたち」。前年に開かれた第1回国際演劇祭(主催ITI)の時のもの。会場は、現在コンテンポラリーダンス用に改築されているパリ市民劇場の前身、サラ・ベルナール劇場だ。それは演劇史に残る画期的な事件とも言える公演だった。なにしろ1770年のディドロの『逆説・俳優術』刊行以来の論議を呼んだ、ブレヒトが演劇論と俳優術を引っ提げての公演だった。幸いにもその数ヶ月後の、第2回の国際演劇祭にも同劇団が招待されていて、今回は『コーカサスの白墨の輪』である。“ベルリーナー アンサンブル”は噂こそ聞いてはいたものの、“鉄のカーテン”の向こう側で、よもやそれを観れるとは思わなかった。

さて、当日は恐ろしいほどの緊張感で芝居がすすむ。終演になるや、観客は全員立ち上がって出演者に拍手を送ったのだが、、急に誰からともなく、後ろ向きになり2階の全面に坐っていたブレヒトに敬意の拍手を表する。それにブレヒトが軽く手を挙げて応えたのだが、驚いたことに、それから全員がさっと足早にホールに向い、そこで各々の仲間同志が騒然と討論をはじめ合ったのだ。それはお祭りやスポーツ競技などの後で起こる騒音に似たもので、観劇の後でこんな光景は初めてだった。私は呆然としてひとりその中に佇んでいた。私は芝居の内容にはあまり驚きを感じなかった。ただ、戸惑いながら、どこかで見たような、奇異な思いがしていた。これがブレヒトのいう「異化効果」なのか、「観客に思考を求める教育劇」なのか?ブレヒトは京劇に接したことがあると聞いていたが、これは偶然なのか、50%歌舞伎なのだ。

ジャン・ヴィラールの「テアトル ポピュレール」と、ベルナール・ドルト、ロラン・バルトへの影響力が大きかったが、これはことばの芝居ではない。歌舞伎の脚本と同じように、ことば以外のものをつくり上げる演技術が問題なのだ。ベンヤミンは「ブレヒトの演劇はジェスチャーである」と言った。ということは、「時代と階級によって、その人間のジェスチャーは違う」ということだ。そいう意味では、立派にマルクス主義の演劇だった。ブレヒトは、その2年後の1956年8月に死亡している。

Tuesday, September 18, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(3)

アルトーは肉体よりも精神の方が大事だと言った。そして、父なる神に使わされてこの地に来たり、我が身を犠牲にしたのが神の子イエス キリストである。その十字架像と、母に抱かれる死せるキリストの“ピエタ”は信者の精神性を高める。そのためには、キリストは衣服を纏ってはいけない。身体はギリシャ的なふくよかな美しい体ではなく、そぎ落とされ悲劇性を持たなくてはいけない。画家と彫刻家たちは、中世からミケランジェロの時代に至までそのことを求め続けた。

結果として、十字架上のキリストの姿体は、十字よりY字の方が悲劇性が勝っていること。躯幹については、胸は肉をそぎ落とされ、あばら骨が見え、腹部は陥没しながらも痩せ細った筋肉が苦悶の波を見せている。躯体のどこにも丸みはなく、冷たく、北方的に硬質である。悲劇性のポイントは胸から腹部への境界線の傾斜、腰と上脚の線、そして膝頭。また、末端の手首、足首の表情に加えて、頭部の傾き。それらの纏まりはゆるやかなフォルムをつくり、部分が悲劇性を呼び起させながらも。上から流れるリズムを感じさせること。

じつは、土方巽が密かに自分の体作づくりに励んでいたのは、この十字架と“ピエタ”のキリストの身体だったのである。クラシックバレエもモダンダンスも方法は違うが、しょせんギリシャの理想的な体なのである。それは精神のために肉体を犠牲にすることはない。ただ、東洋のヨーガだけがこれに近い。ヨーガと言ってもウパニシャッド ヨーガとパタンジェリの古典ヨーガだ。
大野一雄の研究の対象は皮膚であったが、土方巽は筋肉と骨格であった。したがって一方が感覚から感情にすすみ、他方は直観から知性へと向っている。これは、2人とも特殊である。

Sunday, September 16, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(2)

ドイツ統一の精神として、ヒットラーが掲げたシラーの「ウィリアム テル」。2年後に、イスラエル空港での無差別乱射事件の際、パレスチナ過激派は「ウィリアム テルの精神でそれを行なった」と宣言。
アメリカの『裸のランチ』の詩人、ウィリアム・S・バロウズは、酒に酔った勢いで“ウィリアム テルごっこ”をし、誤って妻を射殺したのだが、似たようなかたちで土方巽が台本の「神ともテロリストともつかぬ一人の男」を演じる。分裂した1967年の世界の様相が投射され、意識化され、断片化された行為がランダムに“カット・アップ技法”で進行してゆく。

客席の中に配置された“ピンポン台”上の、穴を穿たれたタイツ姿で踊るケイ・タケイの分裂症ダンス/そこに、しゃがみこむ裸形の土方巽/肩から背にかけて、バケツいっぱいの赤い塗料が注ぎ落とされる/立ち上がった土方は舞台に上り、緞帳前で悲劇性の肉体の踊りを演じる。ジョン・レノンの「イマジン」が流れる/踊りが陶酔状態に入り、キリストのY字型の十字架の姿体でそのまま緞帳に寄りかかる/背の塗料が真っ赤に染まったまま西陣織の緞帳が上がる(これが草月ホール側と問題になる)/ステージ奥に、赤いリンゴを頭上に載せた女の子が立っている/土方が舞台袖から銃を取り出してきて、女の子の頭上のリンゴを狙って乱雑に銃を打つ/女の子は無様に床に倒れる/ファッションモデルが出てきて無音でコースのパターンを演じる/客席の通路をステージに向ってガラガラと音をさせながら、小刻みな足取りで石井満隆がやってくる/見ると、裸の満隆の頸に紐で空き缶が下げてあり、その中で小石が動く音なのだ/通り過ぎる満隆の背には「ああ、忙しい、忙しい!」という看板が懸かっている/大野慶人が舞台下手でボンゴの音を激しく打つ/写真家西宮正明が小学生時代のクラスの記念写真を投影する/土方が再び登場、ゴシック風の鋭角的な舞踏。青江三奈の「雨のブルース」が流れる/小杉武久の音/女装したチャイナ服の笠井叡が踊るシーンがつづく。ーーー/。

Saturday, September 15, 2007

土方巽「ゲスラー・テル群論(1)

土方巽の暗黒舞踏の中でいちばん優れた、というより飛び抜けて印象に残った作品は、1965年11月に千日谷ホールで行なわれた「バラ色ダンス」だろう。これは白黒の映像フィルムが残ってはいるが、臨場感と色彩の鮮烈さにおいて公演当日のリアルな場面の方が勝っていた。
千日谷ホールと言っても、じつはお寺の本堂なので、当時は貸ホールとしても使用されていたのだ。開演の扉が開くと、そこは浄土の世界だ。一面真っ白。本堂のステージと床の全面が白い布で敷き詰められ、その上に椅子が蓮の華のように並べられている。奥の壁面の高い窪みには、全身白塗りの男たちが後ろ向きで仏像のようにじっと立ったままでいる。やがて舞台袖から車夫に引かれた3台の人力車が現れ、上には鹿鳴館風の華麗な洋装姿の大野慶人、石井満隆、笠井叡の3人のダンサーが乗っている。帽子には羽を付け、扇子を煽ぎながら微笑む、白面の貴婦人たちである。

次いで、奇異と幻想の舞踏が繰り広げられるのだが、中でも白と赤の強烈な色彩で、今だに記憶に刻まれている場面がある。ステージ中央の椅子に坐した石井満隆の頭を土方巽がバリカンで刈りはじめるのだが、土方の乱暴な手捌きが原因で、満隆の頭から血が流れ出し、白塗りの満隆の顔を真っ赤に染めてゆく。そして、土方はさっと舞台袖に去り、満隆はやおら立ち上がって踊り出したのである。

土方巽がダンサーとして開眼したのは、1967年4月、草月ホールで行なわれた「ゲスラー・テル群論」の公演でだった。台本は大沼鉄郎だが、彼の本業は記録映画監督である。作品「マリンスノー」でベネチェア映画祭の短編部門の金賞を獲得している。
では、この時の土方の踊りがどれほど素晴らしかったを言葉で言うより、現実面からのレポートで応えよう。それ以前の土方の踊りは3分以上は続いたことがなかったが、この時の彼の踊りは観客を呪縛させながら、ソロで30分も続いた。公演後、観客の多くは約1週間ほど、彼の踊りの強烈なイメージを頭から振り払うことができず、すぐその話が口に出た。さらに、宝塚ファンのある女性は、その公演を観た後、1週間ほど寝込み、下痢が止まらなかったのである。

Thursday, September 13, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(3)

新しいアートを創り出す人、文化をプロモートする創造的なプロデュースの役割を演ずる人を、pro-cre-art(プロクレアート)ともいう。1968年以降、世界中に広まった演劇、ダンスを中心にした先鋭的なフェスティバルの先鞭を振ったのは、ナンシー国際演劇祭を創立、実行したジャック・ラングだった。彼はこの功績によって、フランス文化行政の文化相になるのだが、このミッテラン大統領との名コンビは、かってのド・ゴール大統領とアンドレ・マルロー文化相に相似したものだった。

国の文化を興隆させるためには、他国の文化との交流が必要だ。その役を担うのはコーディネーターである。フェスティバルの企画の芸術面をディレクトするのがアート・ディレクターで、経営面を担当するのがマネージメント・ディレクターである。この両輪の才能があってはじめて企画が成功する。
塩谷敬はジャック・ラングの信頼によってコーディネーターの役を務めた。ただし、彼の場合は2国間の文化交流の事務的な橋渡しではなく、下記のように身を労しての貢献であった。

ジャック・ラングがナンンシーのフェスティバルと平行して、1972年からパリの国立シャイヨー宮劇場の総支配人に任命された後、ラングに“文楽”のヨーロッパ公演の解説を依頼されてから、塩谷の連続的な文化交流の仕事がはじまる。
それは以下のような内容のものだった。宝塚歌劇パリ公演の舞台監督/能楽パリ公演の舞台通訳/雅楽パリ公演の舞台通訳/日本舞踊の花柳徳兵衛の舞台通訳/東山魁夷の唐招提寺のふすま絵展示の仕事/笈田・ヨシのワークショップ「日本の声と動き」の講師兼通訳、などである。
私の周辺でいうと、モレキュラー シアターの出発点となった豊島和子の「アテルイ」パリ公演のコーディネート/ヤン・ファーブルの「劇的狂気の力」日本公演の際のミッション/シュウ ウエムラのメイクショーとパフォーマンス公演の時のカルダン劇場との交渉も、彼の仕事であった。

Monday, September 10, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(2)

塩谷敬(静岡大学教)について記したい。日仏文化交流とナンシー国際演劇祭を語る上で欠かせない人物だからである。
ジャンク・ラングの下でフェスティバルの選考委員と実行委員も兼ねていた彼は、ジャック・ラングがナンシーを離れ、ミッテラン大統領体制の文化相に任ぜられるのと平行して、パリ大学の大学院に移転する。そして、フランスに於ける日本演劇の受容の歴史をテーマにした彼の博士論文がパリで出版され、文化人類学者クロード=レヴィ・ストロースの強い推薦を受けて、アカデミー.フランセーズより1987年度のロラン・ド・ジュブネル文学賞を日本人として初めて受賞する。

昨日のブログで紹介した、塩谷敬の小冊子での記録によると、1972年にジャック・ラングの招聘でナンシー国際演劇祭の事務局に入ったのだが、前年の1971年は「芸術的に最も実りの多い演劇祭となった。ポーランドのタディオス・カントール、アメリカのロバート・ウィルソンそして我が国の寺山修司がナンシーから世界にデビューした。結城人形座と青年座の合同劇団も参加している」。そして1973年には、事務局にいた彼は鈴木忠志の早稲田小劇場と白石加代子を受け入れている。

彼が選考委員のミッションとして日本に向ったのは1974年である。フェスティバル出演の交渉相手は唐十郎と土方巽だった。しかし、唐十郎には「今のところ外国に出るつもりはない」と断られる。そして「土方巽に関しては、ナンシー国際演劇祭の慧眼は、土方の率いる暗黒舞踏の活動に当時から注目していたことです。交渉はかなり具体的に進んだのですが、渡航費を助成してくれる国際交流基金という組織がありまして、その国際交流基金が土方巽の評価は未だ定まっていないということで書類を受け付けてくれなかったのです。ー ほかのスポンサーは見つかりませんでしたので、結局この話は残念ながら流れてしまいました」。結局、1975年の演劇祭への参加者は遠藤啄郎のグループとなったのである。

Sunday, September 09, 2007

ナンシー国際演劇祭と塩谷敬(1)

大野一雄のナンシー国際演劇祭での公演について、かって演劇祭の選考委員であった塩谷敬にその頃の事情を聞いてみようと電話したところ、夫人が電話口に出られ、氏はフランスのカンヌに出張中とのこと。後ほど連絡をくれることになったのだが、夫人が「ナンシー国際演劇祭 ーその誕生と終焉ー」という塩谷敬の記事が掲載された小冊子を送って下さった。その中の相当する部分をここに抜粋してみよう。
「ー 1980年は二年続きの演劇祭であるが、季節を春に戻している。この数年前から世界各地の芸術祭で顕著な傾向を示しているのが、舞踊グループの参加増である。ナンシーでも田中泯、笠井叡、山海塾は評判通りの踊りを披露、当地でヨーロッパデビューを果した大野一雄は話題を独り占めした。」

大野慶人にも訊いてみた。ところが、慶人はこのフェスティバルには同行していないと言う。というのは、慶人にとっては大切な縁である大仏次郎夫人が、その時ちょうど危篤の状態だったからである。現にナンシーでの公演日が5月18日であったが、夫人はその翌日の19日に亡くなられた。
ナンシーへ同行した出演者は、秀島実、上杉貢代、中村森綱であった。

私は、招待の交渉に来日したのは塩谷敬だと、今まで思っていたのが違っていて、現在ピーター・ブルック劇団の照明監督をやっているジャン・カルマンだったらしい。なお、ナンシー国際演劇祭の実行委員長は、この時すでにジャック・ラングではなかった。
創立者のジャック・ラングが実行委員長を勤めたのは1963年から'77年までだった。彼は'81年にミッテランが大統領に当選した際に文化相に就任し、'86年まで第一期の役を務めている。したがってナンシー大学に通う傍ら、ジャック・ラングの下で働いていた塩谷敬も、ナンシーからパリ大学の大学院に移り、演劇を専攻していたのである。

Saturday, September 01, 2007

大野一雄・慶人「部屋」(3)

土方巽が60年代後半に目黒のアスベスト館を本拠として「東北歌舞伎」「暗黒宝塚」と名打って観客の人気を得ていたとき、その間大野一雄が横浜の上星川の丘の上に潜伏していた。そして土方巽が公演を突然中断した後の1977年、70歳を迎える大野さんが思い出の第一生命ホールで、「アルヘンチーナ」公演を行なった。そのことは、すでにこのブログの他のラベルでも述べている。
この公演に備えて、大野一雄は作品作りに相当不安を覚えていたらしい。そして、土方の前で「私は作品を作るのに自信がない」と、つい洩らしたしたのに対して、土方は「あなたには『部屋』があるんじゃないですか」と励ました、という。

たしかに「部屋」は、大野一雄にとってモダンダンスの創作法を越えるひとつの試金石であった。それは労苦だけが残る解体作業のように見えたが、その後“無底”の奥からいくつかの作品が生まれることになる。
憧れのスペイン舞踊手を讃える作品「アルヘンチーナ」では、アルヘンチーナへの模倣、同化ではなく、プラトンがいう“イデア”の影をそこに見ることができた。つづく「私のお母さん」では大野さんの“胎内の舞踏”が公開されることになる。
そして1980年には、ジャック・ラング創立したナンシー国際演劇祭が大野一雄を招待する。この時の出し物「お膳」の評価がひじょうに高かったため、評判がヨーロッパ中に広がり、その噂が日本にも伝わってくる。

なぜ、このように「お膳」が評判をとったのだろうか。おそらく、西洋のダンスが永い間、理念的な美に向って、ムーブメントだけに意を注いできた。それが、ごく普通の、日常的行為と佇まいに目を置き、動きの“痕跡”がそのまま見える描き方に驚異を感じたのであろう。それには、世界の最先端の動きを展示するナンシー・フェスティバルの“場”が必要だった。又、観る者の予備知識として、バタイユの“非知”が。