Tuesday, October 23, 2007

ラインヒルトとオペラ

ケイ・タケイと久し振りに新宿の中村屋で会った後、そのことを含めてラインヒルト・ホフマンに手紙を出した。シアターXでのコラボレーション以来10年も会っていないので彼女のメールアドレスが分からない。
先のラインヒルトからの手紙には、最近、ワグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の演出をしたことを知らせてくれたが、それがとても嬉しかった、と前のブログでも書いたが、そのことに少し追加しよう。
最初、二人でやろうとしていたのはワグナーの『リング』をダンス化することだった。それが『シミュラークル』に変更になったのだが、私がべつにそのことを気にしていなかった。その頃、ラインヒルトはロラン・バルトの『表徴の帝国』に夢中になっていたのだし、私もロラン・バルトを通じて言語の象徴世界に興味を抱いていて,イメージのダンスよりも、日常の現実世界を仮想と見るシミュラークルの世界をテーマにすることに反対ではなかった。
しかし、心の何処かに、折角の魚を穫り逃がしたような気持もあったのも確かで、それは多分、ラインヒルトが誰よりも『リング』のヒロインのブリュンヒルデの役に適していたからである。

ドイツの“タンツ・シアター”を初めて日本で公開したのはピナ・バウシュでなく、ラインヒルトだったのだが、そのとき私が観て感動したのは『マリア・カラス』という作品だった。それは確かにダンス劇であったが、新しいオペラとも言えるものだった。今になって思うのだが、ボブ・ウィルソンやメレディス・モンクの、またヤン・ファーブルのオペラに先駆けるものだったような気がする。そういうことからも、私は無意識にラインヒルトに彼女の新しいオペラを創ってもらいたかったのだろう。しかもワグナーのオペラの曲で。

ワグナーのイゾルデとブリュンヒルデのエンディングがショーペンハウエルの哲学の影響を受け、現実と自我を通り抜けて涅槃寂静の超越世界に入っているというのは、当たっているかもしれない。ワグナーの題材のドイツ神話の解釈は、ユングの「原型論」では埋めつくせないものがある。
しかし、演出は必ずしもワグナーや初期仏教の影響を受けたショーペンハウエルに従う必要はない。そこに解釈の“ずれ”があっても良い筈で、ラインヒルトのばあいは、むしろ大乗仏教の“空”の観念か、または空海の五大、地・水・火・風・空の“空”を“空間”と捉える道を選ぶ方が新鮮なような気もする。
仏教はダライ・ラマ14世が言うように宗教としてよりも、先ず哲学として捉えることが大事なので、私は日本に独自な哲学があるとしたら、それは仏教だと思っている。西田幾太郎にしても禅宗がベースなのである。
そして、われわれがデリダやラカン、ジジェクを学ぶように、『オートポイエーシス』の著者フランスコ・ヴァレラは大乗仏教を学んで『身体化された心』を著し、西洋の文化にまた新らしい東洋の流れを濯ぎ込んでいる。私はそのようなことをラインヒルトへの手紙に書いた。

Tuesday, October 16, 2007

ジャドソン・チャーチのメンバーたち

もう一つ、ケイに訊きたいことがある。彼女がアメリカに渡った時の、向こうのダンスの状況だ。
「ケイさんがニューヨークに着いた頃は、ジャドソン・チャーチのメンバーはまだ活動していましたか?」「やっていましたよ。イヴォンヌ・レイナーとかトリシャ・ブラウン、それにデヴィット・ゴードンにデボラ・ヘイ。みんな美術館でもギャラリーでも、スペースがあればどこにでも集まって。トリシャ・ブラウンなんか屋上に上って、ビルからビルへ信号を送り、次々と踊りをこう変えてゆくんです」と上体で演技してみせる。「ああ、あの有名なのをね、観たんですか!」とからだを乗り出す。それは『メン・ウォーキング・オブ・ザ・ビルディング』(1969)のことだ。ビルの屋上だけでなく、ロープで吊るされたダンサーがビルの外壁を横歩きしたりもする。ほとんでダンスからパフォーマンスに移動する典型的な作品なのだ。

ジャドソン・チャーチだけでなくグランド・ユニオンの話も出てくるし、また、デヴィッド・ゴードンのジーンズとスニーカーでの踊りも、スティーヴ・バクストンのコンタクト・インプロビゼーションも話題になる。

「ところで、イヴォンヌ・レイーのことだけど、彼女だけはよく分からないんだけど、どういう人?」ケイはなんとなく真剣な顔になって「う〜ん、彼女はすごく変わった人なんですよ。確かにあまり紹介されてないようね。最初のジャドソン・チャーチから中心的に動いた人なんです。情緒的でない、ちょっと普通のダンスとは違った、単純な動きの中にー ああ、ちょうど彼女の本がありますので送りましょう」。
それは有り難い。彼女は確かルシンダ・チャルズといっしょに作品を作ったりしていたようだ。要するにその後のミニマリズムの先駆者なのかもしれない。
「じゃ、ケイさんが向こうに渡って2年ほどしてデビュー頃は、ミニマリズムの時代ですか?」「そうそう、ルシンダ・チャルズとか、ローラ・ディーンとか。それにトワイラ・サープ、ああ、メレディス・モンクも踊っていたわ」。「え? あのメレディス・モンクが踊っていたんですか? ぼくは彼女はボイス・パフォーマーだとばかり思っていましたが」「彼女は最初ダンサーだったの。それからアメリカン・インディアンの発声法を学んで、その技術を使ってオペラを創ったんです」。
私はルシンダ・チャイルズがフィリップ・グラスの音に乗って、分節しながら華麗に踊りつづけたロバート・ウィルソンのオペラ『海辺のアインシュタイン』といっしょに、メレディス・モンクの観客の目と耳を惹き付けて離さない、異空間のオペラのイメージを思い描く。

「結局、私も学んだんだけど、みんなアンナ・ハルプリンの影響なのね」「ほとんでマース・カニングハイムのところで学んだ人たちでしょう?」「からだはカニングハイムのところで作って、精神はアンナ・ハルプリンのところで学んだんです」「ニューヨークとサンフランシスコは離れていますね」「みんなサンフランシスコまで出かけて行ったんです。まあ、セラピーですね。海辺で波のしぶきを受けながら裸で踊るんです。映像があります! それもDVDにして送りましょう」。

Monday, October 15, 2007

大沼鉄郎の『傾斜の存在』

ケイ・タケイに訊きたかったのは、彼女がアメリカに留学する前に草月ホールで行なわれたVAVの公演のことだった。VAVというグループはケイと三浦一壮と西森守の3人が創ったグループで、この最初の『傾斜の存在』(1965年)の只1回だけの公演で終わっている。
ケイはその後 '66年のアルトー館第1回公演の『爆弾』(河野典生作)、'67年のアルトー館第2回公演の『ゲスラー・テル群論』(大沼鉄郎作)に出演しているが、それが終わるとすぐにフルブライト給費生として渡米している。次いで西森守はフランスのメーリングのマイム劇団に入り、ただ一人VAVスタジオに残った三浦一壮は舞踊批評家の池宮信夫といっしょにモダンダンスの実験的な試みをしていたが、彼もやがてヨーロッパのワークショップの巡業へと旅立つ。

このようにケイの突然のフルブライト給費生決定から、このグループは解体してゆくのだが、この1回だけの公演、『傾斜の存在』がいまだに強く印象に残っている。その時の舞台装置をつくった石井さんの名をケイに訊いてみた。確か石井研さんでしょう、という。舞台いっぱいの、白い“はりぼて”の三角錐の下で演じていた3人のダンサーとマイマーが、やがて傾斜してゆく三角錐の上に静かによじ登ってゆく。
生演奏のトリオは一柳慧と小杉武久と、たしか近藤さんという人がヴァイオリンを弾いていた。その近藤さんの名前が分からない。訊かれたケイもウーンと言ったきりである。近藤譲氏かもしれない。その時の一柳慧と小杉武久の楽器は何だったのだろう。電子音だったような気がする。

演出の役だった私がこんな状態なので、ほんとうに頼りない。頭の中にふっと浮かぶものがある。「そうだ、大沼さんが8mmで撮っていたような気がする!」。それを聴いてケイは急に明るい顔になり、「大沼さんに電話してみましょうよ!」。台本作者の大沼鉄郎は記録映画の監督だから、きっと大丈夫。
この時のプログラムを作った村田東治は、その後コム・デ・ガルソンのカタログとシュウ・ウエムラの『VISAE』に素晴らしい仕事を残して夭逝した。石井さんと村田さんの2人は、この時はまだ桑沢デザインスクールを卒業したばかりだった。驚いたことに、村田さんはプログラムを公演が終了してお客が帰ってから運んできた。だが、そのプログラムを、2人とも今、捜せないでいるからこんなことになる。
ケイは言う「あの傾いて行くところが良いですよね。『傾斜の存在』は好きだなあ。もう一度やりましょうよ!」。

Saturday, October 13, 2007

ラインヒルト・ホフマン

中村屋で久し振りに会ったケイは、相変わらず元気な様子だった。「ラインヒルトから手紙がありましたよ」と言うと、「どんなこと書いてありました?」と問うてくる。
1998 年にケイの仲介で、ラインヒルトと仕事をしたとき、最初ワグナーの『リング』のブリュンヒルデをダンスでやろうとしていた。ラインヒルトは『リング』関係の重い本をぎっしりとトランクに詰め込んで羽田に到着した。さて、制作に掛かった段階で、ラインヒルトは悩み出したようだ。「じつは自分はワグナーをそんなに研究していない。無理だと思う」とラインヒルトは下を向いて静かに言った。私は黙っていた。「“シミュラーク”ならどうですか?」とラインヒルとは言った。二人は“シミュラーク”についても話し合っていたのだ。そしてシアターXでの公演は『リング』から『シミュラークル』に代わったのだ。

受け取ったラインヒルトからの手紙は、次のようなことを記してあった。
「私はあれから貴方のことを時々思い出しています。貴方のスタジオでいっしょに仕事をしたときのことを。貴方は熱心にブリュンヒルデの最後の場面を仏教と関連づけて哲学的な考えを述べてくれました。最近、私はオペラ『トリスタンとイゾルデ』を演出しました。その時からワグナーの本を読んでいます。ショーペンハウエルの哲学と関係づけて。ということは仏教と関係づけてなのですが。
じっさい、ショーペンハウエルの哲学はワグナーに影響を与えていたのです。そしてイゾルデとブリュンヒルデの最後の場面は超越的な涅槃の域に達していたのです。
そのように、あの時あなたは私の仕事に対して言いつづけていたのでした。今になって貴方の意図が理解できます。さらに『シミュラークル』においても。 ー これが私の言いたいことです。」
オペラ歌手にワグナー歌手がいるように、ラインヒルトはワグナー作品にイメージピッタリのダンサーである。彼女がワグナーの『トリスタンとイゾルデ』を演出したという知らせは、本当にうれしい。
ケイがラインヒルトを私に紹介し、ラインヒルトが私にスザンヌ・リンケを紹介してくれた。リンケについても、あのパリ私立劇場での晴れ姿が目に浮かぶ。
ケイに訊いたらば、二人とも体調を崩してもう舞台には出ていないという。寂しいことだ。

Friday, October 12, 2007

ピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン

今日、新宿中村屋の地下のカフェでケイ・タケイと久し振りに待ち合わせた。ドイツでラインヒルト・ホフマンに会ったみたいで、その時の彼女の写真を同封した手紙を送ってくれた。しかし、生憎こちらはちょど入院していて、そのままになっていたのを詫びるのと、ブログを書くに当たって彼女に訊きたいことがいくつかあった。
ラインヒルトはケイの紹介でいっしょに仕事もしたこともあるし、1ヶ月ほど私のスタジオで稽古をした間柄なのでとても懐かしい。そのとき、彼女をお寺の座禅にも、茶道の稽古にも誘ってあげた。クルト・ヨースの学校でピナ・バウシュの後輩にあたるのだが、当時のクラシックバレエの攻勢に対して、2人とも一所懸命対策を考えたようだ。『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』のようながっしりした作品を創らなければと苦労したようだ。その結果、生まれたのが2人の「タンツテアター」だった、ということだ。

ホフマンがクルト・ヨースがエッセンに創ったフォルクヴァンク芸術大学ダンス科の4年に在籍していたとき、スザンヌ・リンケはマリー・ヴィグマンのところから2年に編入している。ピナは、その頃は卒業生たちの活動団体であるフォルクヴァンク・ダンス・スタジオで振付けとダンサーの仕事をしていたのでる。その後、ピナはヴッパタール・舞踊団のディレクターに招聘され、代わってホフマンとリンケの2人がその席を受け持つ。そして数年後にはホフマンはボッフム舞踊団のディレクターでタンツテアターの創作に入り、リンケはソロ活動を出発することになる。

日本での最初のタンツテアターの公演は1954年の“ドイツ祭”に組まれていたホフマンのボッフム舞踊団の国立劇場での公演だった。私はその時、プログラムの1つの作品『マリア・カラス』を観たのだが、はじめてのタンツテアターの経験は驚きであった。一方、ピナは1979 年のパリのテアトル・ド・ラ・ヴィルでの公演(『七つの大罪」『青ひげ』)で注目を集めて以来、トマ・エルドスのプロデュースによって世界各地を巡業して評判をとる。最初の来日公演(『春の祭典』『カフェ・ミューラー』『コンタクトホーフ』)は1986に国立劇場で行なわれた。1990年のリンケの来日公演では、彼女をダンスの道に導いたドーレ・ホイヤーのための作品『ドーレ・ホイヤーに捧ぐ』が上演された。

Tuesday, October 02, 2007

ヴィグマンとクルト・ヨース

明らかにダンサーと分かる男女の2人がスポーツカーで劇場にやってくる。同じダンサーでも、フランス人とは違って、ドイツ人は背が高くすらりとしている。私は窓口で当日券を買う、まだ開演まで時間がある。その間に空腹を癒して適当なホテルを捜そう。
マリー・ヴィグマン(1886~1973)は、最初ダルクローズにリズムダンスを学んでいたが、表現主義のモダンダンスの最初のシステムを創ったルドルフ・フォン・ラバン(1879~1958)の門下生となる。ラバンは最初、アクの強いヴィグマンを嫌っていた。だが彼女のドレスデンとハンブルグでの公演が成功し、ドレスデンに舞踊学校を設立する(1920)。やがて、ヴィグマンは彼女の強烈なソロ・ダンス「悪魔の踊り」(1931)などによって、モデルネタンツの中心的な存在となる。日本の江口隆哉、宮操子も彼女のドレスデンの学校で学んでいる。
一方、ラバンの同門のクルト・ヨースは、シュツットガルドの音楽学校のラバンに学び、助手を務める。その後ミュンスター私立劇場のバレーマスターとなるが、彼の本拠地となるエッセンに移り、フォルクヴァング学校を設立したのは1927年である。代表作「緑のテーブル」(1932)は各地に巡演してセンセーションを起す。

この対立する2人の舞踊家の運命を分つたのは、ヒットラーが渾身の力を投じた1936年の“ベルリン・オリンピック式典”だった。ラバンがその演出を担当し、ヴィグマンが群舞を振り付け、自分も踊った。その後ヒットラーの危険を感じたラバンがロンドンに逃亡し、ヨースはその後を追う。しかし、ナチスのシンパの愛人を持つヴィグマンはそのまま留まる。
戦後になってみると、ヴィグマンのドレスデンの舞踊学校は解体し、クルト・ヨースはエッセンに再び帰ってきて活動を開始する。ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団、ラインヒルト・ホフマンのボッフム舞踊団の“タンツテアター”とスザンヌ・リンケのソロ活動が、エッセンのフォルクヴァング学校とフォルクヴァング・ダンス・スタジオから生まれる。
リンケだけは、戦後に残存したベルリンのヴィグマン研究所に最初学んだが、後にフォルクヴァング学校に移転している。ヴィグマンの門下生で世界の表舞台に出てくるのは“ベルリンダンス工場”である。
しかし、上の3人のダンサーが活動するのは70年代に入ってからで、“ベルリンダンス工場”は80年代からである。

1955年にマンハイムで観たヴィグマンの群舞は、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」にヴィグマンが円形舞台上に振付けたものだった。カール・オルフといえば、あのヴィグマンが振付けた「ベルリン・オリンピック輪舞」の作曲者である。「カルミナ・ブラーナ」はオリンピックの翌年の1937年に創られ、大変な評判を呼び、この前年の'54年にレコード化されて一般に普及した。
さて、この作品はどのような劇作品であったのか。しかし、ここでは暗示的に述べることにしよう。オルフは以前からダルクローズのリトミックに感心を持っていた。そして<身振り、手振りの>の動きに合う劇作品をつくることを目指していた。また、音楽学者のザックスの指導の下に、オペラの原初であるモンテヴェルディの劇作品を発見し、1925年には、このマンハイムで彼が編曲した「オルフォイス」を初演して成功している。