Friday, October 12, 2007

ピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン

今日、新宿中村屋の地下のカフェでケイ・タケイと久し振りに待ち合わせた。ドイツでラインヒルト・ホフマンに会ったみたいで、その時の彼女の写真を同封した手紙を送ってくれた。しかし、生憎こちらはちょど入院していて、そのままになっていたのを詫びるのと、ブログを書くに当たって彼女に訊きたいことがいくつかあった。
ラインヒルトはケイの紹介でいっしょに仕事もしたこともあるし、1ヶ月ほど私のスタジオで稽古をした間柄なのでとても懐かしい。そのとき、彼女をお寺の座禅にも、茶道の稽古にも誘ってあげた。クルト・ヨースの学校でピナ・バウシュの後輩にあたるのだが、当時のクラシックバレエの攻勢に対して、2人とも一所懸命対策を考えたようだ。『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』のようながっしりした作品を創らなければと苦労したようだ。その結果、生まれたのが2人の「タンツテアター」だった、ということだ。

ホフマンがクルト・ヨースがエッセンに創ったフォルクヴァンク芸術大学ダンス科の4年に在籍していたとき、スザンヌ・リンケはマリー・ヴィグマンのところから2年に編入している。ピナは、その頃は卒業生たちの活動団体であるフォルクヴァンク・ダンス・スタジオで振付けとダンサーの仕事をしていたのでる。その後、ピナはヴッパタール・舞踊団のディレクターに招聘され、代わってホフマンとリンケの2人がその席を受け持つ。そして数年後にはホフマンはボッフム舞踊団のディレクターでタンツテアターの創作に入り、リンケはソロ活動を出発することになる。

日本での最初のタンツテアターの公演は1954年の“ドイツ祭”に組まれていたホフマンのボッフム舞踊団の国立劇場での公演だった。私はその時、プログラムの1つの作品『マリア・カラス』を観たのだが、はじめてのタンツテアターの経験は驚きであった。一方、ピナは1979 年のパリのテアトル・ド・ラ・ヴィルでの公演(『七つの大罪」『青ひげ』)で注目を集めて以来、トマ・エルドスのプロデュースによって世界各地を巡業して評判をとる。最初の来日公演(『春の祭典』『カフェ・ミューラー』『コンタクトホーフ』)は1986に国立劇場で行なわれた。1990年のリンケの来日公演では、彼女をダンスの道に導いたドーレ・ホイヤーのための作品『ドーレ・ホイヤーに捧ぐ』が上演された。

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