Friday, November 30, 2007

舞台空間

社会学の創始者といわれる19世紀のエマヌエル・コントの説は、舞台を創る場合にひじょうに参考になる。
彼によると、ギリシャ時代の人間は宇宙的世界に生きており、ルネッサスから18世紀までの人たちの思考は形而上学的であり、コントの時代である19世紀は、現実的なリアリズムの世界だというのである。

それを舞台芸術に当てはめて考えると、古代ギリシャ劇とローマ時代の中世の神秘劇、それに日本の能楽は、たしかに宇宙的な空間の中で演じられている。能楽はそれに幾何学的な構図があるから中世的な要素も加えられているが。また、ルネッサンスに発生したオペラ・バレエの空間表現は、なるほど幾何学的な、点、線、角度の上に演じられ、腕は直接からだに触れられることはなく、舞台の空間構図、演技者の身体表現すべてが幾何学的な構図に乗っている。

ここで、はなはだ興味を惹かれるのは九鬼周造という日本の哲学者の著した『いきの構造』という本の中の“ものの考え方”である。九鬼はハイデッカーの下で学んだというが、かならずしも、現象学という理論だけでは捉えられないものがある。日本伝来の感性から生まれた直観的な“遊びの自由さ”にあふれている。そして、このコントの形而上学的な空間構造が、彼が説く歌舞伎の形式に相応するとしても、観念の網の目から抜け落ちた部分にこそ彼の目は注がれ、小唄の情緒的な音声にこそ、この時代区分の特性を見ているのである。

それに、歌舞伎の隆盛時の江戸時代は、もはや中世的な文楽の形式に近代的なリアリズムの演技を加えつつあったのである。
ところで、19世紀以来のリアリズムの世界に生きるわれわれにとって、“リアルな表現”とはいったい何か。リアルな感覚、直接的な感性、生理的な体感。より直接的な“物そのもの”に当たる身体的な実感にこそリアリズムの土台がある、と人々は考えていた。

ところが19世紀末に、はからずもフロイトのような人間の内面に関心を持つ人間が現れたのである。
それは、日常生活の表の部分とちょくせつ連動する人間の内的心理とは違う。人間のこころの奥に潜む深層心理と、その葛藤のコンプレックスを扱ったものである。その深層心理が隠された通路を通って現実の目に見える人間の生活を動かす、という。

現実の事象を逆転させる視点が提出されたのである。
ならば、演劇空間としては、19世紀のコントが考えた3つの空間理念に、またひとつ内部空間を追加したらいいのであろうか?
しかし、ここで「現実」とはいったい何か?「リアリズム」とはどこまでを言うのか? という疑問が湧いてくる。
この問いに対して、ジャック.ラカンとアントナン・アルトーが登場してくることになる。

Thursday, November 29, 2007

「アートは症状である」の構成

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール

まず、“おくのほそみち”の細部から入ること。ダンス・パフォーマンスの進行、構成は以下の通りです。

開演 VTRスタート 瀧のVTR + シルエット      3'30"
1場 修羅(山下浩人) ほんのりとした電燈の色合い  10'00"
2場 女面(村田みほ子)状況としての色がかわる    10'00"
3場 狂女(浅沼尚子) 状況としての色がかわる    10'00"
4場 切り(及川廣信) ちょっと明るく        12'00"
胎臟マンダラ 金剛界マンダラ
ラスト 再生(浅沼/村田/山下)           6'00"
太陽の光 青白い明るい光り
オーゼの死 地底にとぐろ巻くへび 耳 宇宙への聴覚 
瀧の逆流するVTR  照明 F.O  VTRが終わる 客電   計)51'30"

 たちこめるそらいちめんのむらさきのくも
    荒川堤赤水門河川敷
 ころされたおとこのしたいがそこにみえる
 てれびでみたえいがのひとこま
 はなしの虚のなかの実のからだ

 わたしはいまここにたっている
 ゆったりとしたみづのながれと
 きしベにうごくくさぐさの細部
  
  象徴界地底現実界曼陀羅図
 ほそみちをおりてゆくひとの影
 おくにきこえるぴあののおとはー

この作品は「虚と実」をテーマにしています。虚と実は、“アートは症状である”という名言を発した精神分析家のラカンの理論によると、<実>は“現実界”に、<虚>は“象徴界”に当たります。彼のいう“現実界”というのは、日常のリアルな世界ではなく、リアルな現実の中に潜む“物自体”ともいうべき世界です。その上を覆っているのが“象徴界”で、言語を基底に意味作用をなす世界です。
われわれは、混合した2つの世界の境界において、空間表現の側からそのテーマに当たるため、地上と地下、太陽と影の面からそれに向ってゆくことにしました。アートの各分野からのコラボレーションによるものです。

Wednesday, November 28, 2007

「アートは症状である」の第2回公演

 《アートは症状である》
   ー おくのほそみち ー  
       2007.12.1-2 於:キッド・アイラック・アート・ホール
 空間演出:大串孝二/構成演出:及川廣信/ 映像構成:加藤英弘
 音楽構成:弦間 隆/照明構成:坂本明浩/スタッフ:渡辺アルト
               
     
“アートは症状である”の今回は、<美術を前提>にして、各分野のアーティストが関わっています。互いに話し合っているうちに、最初に浮かび上がったのは「虚と実」の問題で、このことが中心となってさらにいろいろなことが討論されたようです。というのは、各ジャンルによって技法が異なりますし、技術の上からしか新しいアイデアは生まれないからです。

今は精神医学と社会学が勢いがいい時代です。われわれはその時代の流れに乗るわけではなく、むしろ時代の慢性的な流れの底辺にある忘れられたものを掘り出したいのです。その意味では今の社会学の“レフレクション(回顧)”の方向に同意します。なぜなら、ポスト・モダンということばには、近代は終わったというニューアンスがあるからです。

果たして近代は終わっているのでしょうか。ウェブの世界ではグーテンベルク以来の革命の時期だという観点から、回顧どころか新進化論を唱えている人々がいます。前へ進むものと、振り向くもの、しかし今は一人の人間の中に、この強力な逆方向の引力が働いている時代なのだと思います。

新しい発想、発見。優れた学説や技術があるなら、その中にもぐって、さらに独自なものを創り出せ。ここにも、愚化しない孤高の精神と、共同作業が生み出すものへの期待があります。
アートは症状であるのでしょうか。それは精神医学的症状なのでしょうか。多分それは気質的なものではなく、その時代の意識・感覚を、日常の枠を越えて仮想として表現する(再現 レプレザンタシオン)からなのでしょう。

Sunday, November 25, 2007

こころと空間

モダンダンスからコンテンポラリーダンスへと、時代の流れにそってそのスタイルが変わってきたが、そのどちらが優れているかという優劣は付け難い。
モダンダンスはソロ・ダンスから始まった。したがって内的な自分の内面を描くことができた。それがコンテンポラリーダンスになるに及んで、動きのスピードとダンサーの中性化が起こり、個人的なものから公共的なテーマを選ぶことになった。
空間的な場としては、モダンダンスのばあいにはダンサーの身体を取り巻く曖昧な宇宙空間として捉えられており、コンテンポラリーダンスのばあいは、照明によって幻想的部分が加えられるものの、原則的には躍るためのスペースと計算されているのである。

一方、舞踏の場合は前の2つとは違って日本固有の発想から出た、正しくウェブのオープンソースの世界のようなものだった筈が、ソースコードがオープンになっているようでいて、その実、日本独自の神秘主義的な囲い込みが働いているため、せっかくの進行の道を止めている。舞踏は個人的な心理というより、ユングの集合的無意識に近く、また肉体の“生命哲学”を土台にした踊り、というのがいちばん相応している。
踊り手の肉体が、彼の内部の魂と生命の動きを表現する場となっており、その表象作用が大宇宙に呼応する働きをなしている。

今後、ダンスの道としては、その中間領域にあったポストモダンのダンスとパフォーマンスの試みの方に参考になるものが多く含まれているように思う。
又、“こころ”の面ではラカン、ジジェクが拓いた<想像界、象徴界、現実世界>が、内部空間の分析としてフロイトを継いで、新しいアート空間を築くベースになってくれる。
また、20世紀の量子力学と言語学が導いた“細分化”と“分節化”が“実体と虚像(シミュラークル)”といっしょに世紀の新しい舞台を形成して行くことと思う。
(このことについては、これから記するラベル“おくのほそみち”を参照していただきたい。)

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(2)

前述した先駆者を含めて、以下のいくつかに分類された領域のダンス傾向を、コンテンポラリーダンスと捉えたい。私はその大きな動きを5つに分類する。

1つは、モーリス・ベジャールが59年にベルギーのブリュッセルのモネ劇場に活動拠点を移し、ストラビンスキーの『春の祭典』成功後の60年には、モネ劇場専属バレエ団「20世紀バレエ団」を結成、新バロック形式のブームを巻き起こす。ヌーベルダンスとして活躍するメンバーとしては、20世紀バレエ団からはドミニック・バグエがその出身者であり、ベジャールが主宰するバレエ学校「ムードラ」からはマギー・マラン、アンリ=テレサ・ド・ケースマイケルなどを排出したこと。

2つ目は、モダンダンスのクルト・ヨースの2人の弟子がアメリカに渡り、そこで新しいダンスの息吹に触れ、帰国後“タンツ セアター”というダンス劇を創造し、ダンス界に旋風を巻き起こしたピナ・バウシュとラインヒルト・ホフマン。それにスザンヌ・リンケを加えてクルト・ヨースの“3人姉妹”という。
それに、マリー・ヴィグマンの流れも含まれるダンス実験集団「ダンス工場ベルリン」を加えておこう。

3つ目は、パリ・オペラ座を発祥とする。アメリカのアルヴィン・ニコライの弟子のカロリン・カールソンがパリ・オペラ座に招かれてモダンダンス研究所GRTOPを創ったのが最初で、それをジャック・ガルニエが継いでGRCOPとなる。周辺にジャン・クロード・ガロッタ、ドミニック・バグエ、また「ムードラ」の出身者たちも加わり、フランスのヌーベルダンスと呼ばれる一派を形成し、ドイツの表現主義に対抗することになる。

4つ目は、ベジャールの場合と同じように、クラシックバレエからの流れなのだが、ドイツのジョン・クランコのシュツットガルト バレエ団を出発点とする、オランダの「ネザーランド・ダンス・シアター」のイリ・キリアンと「フランクフルト・バレエ団」のウィリアム・フォーサイス。それに、「ハンブルク・バレエ団」のジョン・ノイマイヤーもいる。

5つ目は、同じベルギーでもフランス語圏のブリュッセルとは違って、フラマンのアントワープ出身のヤン・ファーブルとその弟子ヴィム・ヴァンデケビュス。
それにカナダの「ラララ・ヒューマン・ステップス」とイスラエルの「バットシェバ舞踊団」を加えようか。英国から入れるなら、マイケル・クラークだ。


日本のモダンダンスとコンテンポラリーダンスとが見分けが付かないのは、コンテンポラリーダンスが始まる以前から、モダンダンサーを対象にして、東京新聞の主催で新人コンクールと現代舞踊展が毎年開催されるうちに、時の流れにつれて二つのジャンルが混同しはじめたからであり、またユーロッパのコンテンポラリーダンスが日本に遅れて吸入されたからでもある。
さらに混乱を招いているのは、江口隆哉・宮操子、邦正美、津田信敏などのモダンダンスとはちがって、モダンバレエという分野が存在していることである。
1912年、チェッケッティの弟子イタリア人のバレエダンサー、ジョバンニ・ビットリオ・ローシーが、帝国劇場に新設された歌劇部の研究生の教師として招聘され、そこで学んだ石井漠と高田雅夫・せい子は独立して舞踊をはじめ、自分たちの踊りをモダンバレエと命名しており、その後継者たちがドイツ系のモダンダンスといっしょになっていて、今になっては判別が付かなくなっている。だが、内実には差がある。

(なお、この記事は「モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界」のテーマに添って、その概略を記したもので、近代以降のダンスの歴史を語ったものではない。そのため当然、重要なイベント、作品、振付け家、ダンサーについて触れていない部分が多々あることを了承していただきたい。)

Wednesday, November 21, 2007

仲野惠子

仲野惠子をはじめて知ったのは、international dance festival in theater X のGeneral Directer(第1回〜第3回) をやっていたときのことだった。その'94年の第1回のフェスティバルに彼女が選抜されていたのだ。
その時の作品についで3作品を観ているのだが、当時はある程度の水準には達しているが、なにか自分の殻を抜けきれないでいるところがあった。

それが2006年の“現代舞踊展”(東京新聞主催 於メルパルクホール)に参加した彼女の作品『アイネ・クライネ・ブルーネ』では、すっきり抜け切った青天のなかにいる彼女を見出したのである。その公演についで2007年の“現代舞踊展”での『コスミック・ダンス』と、今度の“わびすけ舞踊倶楽部”の『自分の卵』の彼女の作品を観ても作品のレベルが同じ次元を保っている。
当然、彼女自身も承知していることだろうが、『アイネ・クライネ・ブルーネ』の公演の直前に起こった、あの事が原因だったようだ。

それは、彼女がインドネシアのダンス・フェスティバルに招聘されて現地に趣き、公演直前に、彼女にとって何ものにも換え難い、大切な母の危篤を突然知らされたのだ。一応舞台を終え、急いで帰国し、やっと母の死に目に間に合うことが出来たのだが、その時の経験が彼女の存在を根底から変えたようだ。
存在を変えたことが、しぜん彼女の作品を変えたことになる。
踊りというものを“存在”をベースに創りはじめたのである。

仲野惠子の踊りと直接関係したことではないのだが、そこから連想するかたちで、次にモダンダンスとコンテンポラリーダンスの差異を“こころ”と“空間”の側から考えてみることにしよう。

Sunday, November 18, 2007

モダンダンスとコンテンポラリーダンスの境界(1)

先に記した仲野惠子の作品『自分の卵』は、2007年11月9日(金)、きゅリあん小ホールで行なわれた“わびすけ舞踊倶楽部”(在外研修員ダンスパフォーマンス)の第1回公演の中で行なわれたものである。
この際、ついでにモダンダンスとコンテンポラリーダンスについて触れたい。
いまになって、モダンダスとコンテンポラリーダンスの差は何かと言っても、技法と空間の捉え方(=振付け者の内面)の違いというより、むしろ研究所の歴史とその教授法から来ている。しかし、これは旧い研究所ほど旧いシステムでやっているとは限らず、それなりに努力して改革されていることもあるし、また、その出身の優秀なダンサーが海外に研修生として派遣されるか、または自費で渡航して向こうのダンスグループに加わることもある。

一方、モダンダンスの世界からその独自の主張の下に“舞踏”という名を掲げて分離した土方巽、大野一雄の一派があるが、その中の中心的な3人のメンバー大野慶人、石井満隆、笠井叡のうちの笠井叡はじぶんの踊りの分野をダンスと称している。

ヨーロッパにおいては、舞踏の名になにか東洋の神秘的な幻想を抱く人が多いらしく、日本人の踊りに舞踏という名が付くと、期待または、自分なりに解釈し納得する傾向があるようだ。そしてまた安易にそれを利用する舞踏家もいる。その点からいうと、自ら舞踏の道を拓いた一人である笠井叡が自分の踊りをダンスと名称するのは彼なりの信念からなのだろう。
しかし、ヨーロッパではすべての踊りを総合してダンスというのであって、バレエもダンスクラシックなのである。
こういう風に語って行っても、はっきりしない部分があると思うが、その混乱の一つの原因はダンスの歴史の流れと、欧米からの日本のダンスの受け入れ状況から来ているようだ。

ダンスとバレエの関係をも含めて、これらの世界的な発展の“ねじれ現象”は1954.5年頃から起こっているようだ。その顕著なものとしては、1955年クラシックバレエのモーリス・ベジャールが彼の“エッフェル塔バレエ団”で、作曲家のピエール・アンリとピエール・シェフェールとともに創った『孤独な男のためのシンフォニー』という「具体音楽」をバレエ化している。また同年に、パリオペラ座に戦後はじめて招聘されたニューヨーク・シティ・バレエ団のジョージ・バランシンの作品といっしょにジェローム・ロビンスの作品も招聘され、そのドビュシーの『牧神の午後』(53)では、ロシアンバレエのニジンスキーの振付けとは全くちがって、誰もいない稽古場で、一人の男性舞踊手が鏡に映る自分の踊る姿を見てナルシシスムに浸るのだった。
それと、まだ潜伏されたかたちだったが、サドラーズ・ウェールズ・バレレ団の内部ではジョン・クランコが最初の創作を行ないながらも、居心地の悪さを感じて外部でも活動を開始している。それがやがてドイツのシュツットガルト バレエ団に移転することによって才能が一気に花ひらいて行く。
これが後のコンテンポラリーダンスの基盤となる、準備期の時代と言っていいのであろう。

ダンスの様相の変化が明かになるのは、アメリカからだった。マーサ・グラハムの下を離れて音楽家のジョン・ケージの協力を得、先鋭的な画家たちとコラボレーションを行なったマース・カニングハムのアヴァンチュール。さらに、その研究所の出身者でアンナ・ハルプリンの影響を受けたイヴォンヌ・レイナやトリシャ・ブラウンが中心となって、ジャドソン・チャーチで身体への記号的な新しい試みを行う。
そしてジャドソン・チャーチから場所が移っても、各地でトワイラ・サープ、ルシンダ・チャイルズ、ローラ・ディーン、メレディス・モンクなどが活動の手を広げ、アメリカのポストモダンの運動を展開して行くのである。
また、西海岸ではパフォーマンス活動が後続して起こっており、海を越えては、ピナ・バウシュやヤン・ファーブルが、日本では勅使川原三郎がパフォーマンスを経過して、ポスト・モダンからコンテンポラリーダンスへの橋渡しを担うことになる。
(ただし、ポスト・モダンの名称、概念、時代区分、内容、技術などにについては後述する。)

Saturday, November 10, 2007

仲野惠子の『自分の卵』

ステージ中央前にあるガラスの花。左右の天井からスポットライトが当たっている。それがこれから踊られる『自分の卵』と、どのような繋がりを持つのだろうと考えているうちにベルが鳴り舞台がはじまる。
儀式なのだろうか。上手奥から赤い衣服と白いターバンの一人の女性の踊り手が、地球儀のような金色の球を抱いて、明け染めた白光の中を、花に向ってすすむ。背面は黒一色の緞帳。微かに小鳥のさえずる声が聴こえる。そして、彼女はその球を銀色に咲きひらいた花の中に沈める。
方形に描く彼女の歩行の線が、聖なる域をつくりだす。そして、彼女の記号的な踊りがはじまる。冷たい、速度の早い、線的な踊りである。彼女のからだが踊っているというより、空中に描かれた記号そのものに見える。もう失われた古代民族の祈りを込めた仕儀のように。遠い古層の記憶の踊り。ヴァイオリンの響きが、見えない空間の殻を内側から少しづつ割っていく。混沌の中から、形のあるもの、意味のあるものが生まれようとしている。

ハンナ・アレントは名著『人間の条件』の中で、マルクスの理論が労働と消費の対比のみを中心にしていることを批判し、労働から仕事(工作)という、より人間的・精神的な面を強調して、取り上げている。また、老子の“タオ”、荘子の“混沌”から捉える方法もあるのだろう。あるいは“書”の墨で描かれた「一」という漢字の中に、記号の“意味するもの”と“意味されるもの”が分離される以前の、“全一なるもの”の生命のエネルギーを感じ取ることもできるだろう。
一つの卵、それは自分の卵であって、しかも鳥類、動物、人間、すべての卵でもある。
アントナン・アルトーはメキシコに渡ったとき、タラフマラの岩の上に神が啓示する記号を見た。そして古代人は記号的に踊ることによって、神との交感を得たのだ。