Friday, August 14, 2015

「鴻氏との対談」のための基調講演



       「鴻氏との対談」のための基調講演
    
        テーマ「モダンとポストモダン」
   -------- ヒノエマタ パフォーマンス フェス から 現在時へ ---------
                                及川廣信

 モダンは、歴史的に近代の意味で解釈したばあい、18世紀半ばからと捉えることもありますし、芸術面では画家マネーへのボードレールの美術批評から始まり、モネー、ピサロなどによる光をテーマにした印象派の主張がモダンへの道を開いたという捉え方。もう一つは、19世紀末のアール ヌーボーやそれに続くアール デコの装飾美術から展開し、ディアギレフのロシアバレエ団からはじまり、1920年代の狂乱の時代、コクトー、シャネルなどが注目を浴びた時代をモダンの典型と言っても良いのでしょう。
 そして、日本では、大正ロマンからはじまり、大正12年の関東大地震を経て、昭和の時代に入り、大正ロマンの残照と西洋から新しく輸入されたデザインとの融合によってつくられた、昭和3,4,5,6年(ミヨゴロ)の時代。文学で言えば、川端康成や横光利一などの新感覚派や、食器など日常の道具類や洋装の女性のモダン風俗がそれに当たるのでしょう。
 しかし、ここでモダンの意味を、時代区分による風潮からでなく、的確にその底辺にある本質的ものを探り出してみせたドイツの社会哲学者ジンメルの「貨幣の哲学」から始めることにします。
 
 
 ジンメルの「貨幣の哲学」
 
 ジンメルは1897年頃から「価値(ヴァルール)」という観点から時代を包括して解釈することを考えていたのですが、1900年にそれをまとめた形で『貨幣の哲学』という書物を出版したのです。
 ジンメルのこの「価値」というのは、マルクスが言う「物と物とを交換するばあいの同価値を意味する、「物々交換」を代理する「貨幣」の「価値」とは違ってくるのです。その現実の生活においての「価値」と違った、もっと深部に関わる、人間の人格の「価値」にも関わるものだったのです。
 と、いうのは、ジンメルがどのようなきっかけで、この「価値」の問題について
哲学的に掘り下げようとしたかの事の起こりは、たとえば、一人の女性が当たり前の仕事をした時の「価値」として支払われるお金と、自分のからだを援助交際として売ったばあいの「価値」のお金の差は大きく違います。この事にジンメルは思考の焦点を当て、哲学的に「価値(ヴァルール)」の意味を考えはじめたのです。
 その事についての、彼の哲学的思考の経過と結論は次のようになります。

 ジンメルのばあい、当時の「売春」をテーマに“価値”の問題を考えているうちに、彼の頭のイメージの中に、時代の原理としての“貨幣”の問題がクローズアップされて来たのです。
 ジンメルは、使用価値や交換価値を、彼の思考の対象にしていたのではなかった。物の価値は交換しようと望むその人によって違うし、また物が持つ価値そのものも固定せず、交換しているうちに、その関係性の中で変わる。価値(ヴァルール)は動いているうちに変わるものだ、とジンメルは捉えたのです。ジンメルは、そこから「関わりの<動き(ムーブマン>の中に“価値”がある」と捉えたのです。

 産業革命以後の社会は工場の機械や、列車の動きのように、すべては機能的に連結して動き出していたのです。時代の特徴は、ニュートンの絶対的な物の考え方から、アインシュタインの[相対主義」に代っていたのです。したがって、物を相対的に動きの面から捉えるようになっていたのです。人々は世界がダイナミックな動き(ムーブメンント)を中心に変わってゆくものと考えていたのです。
 従って、当時は身体の中でも人をダイナミックに動かす“筋肉”が神聖化され、モダンダンスがクラシック バレエに対抗して勃興し初めていたのです。
 また、人間や社会というものも、近代が当初考えていたようには実体がなく、いろいろな関係性の中で動いている内に、変わってゆくものと捉えられている。そしてジンメルの考えでは、社会とそれをつくっている人間とは、内部的に共通するものを持っており、共に実体ではなく、関係性のなかで動いているものとしたのです。こように彼の哲学的思考は現実の社会を目の前にして、直接的に身をもってそれに当たることによって、生きた社会学が生まれることになったのです。
 
 ジンメルのこの一見単純な疑問から発した価値論を、それまでのアカデミックな学問から捉えたばあい、いささか学問の領域を踏み外した感じがしたのでしょうが、彼は現実の社会を観察し、それを分析することが社会学だと、その信念の下に物事に当たっていたのです。これらの事実に潜む価値(ヴァルール)問題が、その後大きく経済学にも転換されていったのですし、またモダンからポスト モダンの時代を越えてグローバル時代に放り込まれた現在においては、「貨幣」がその中心的な動力となって、あらためて注目されているのです。
 ジンメルの哲学は、カントの理性主義の批判によって成された範疇の分類分けとは違います。時代はもうニーチェたちによる「生の哲学」の思想が浸透していました。したがって、彼の社会学は認識の面だけでなく、感覚と感情がどのように時代の傾向として織りなしているかも観察に加え、しかも大衆演劇やオペラなどに覗かれる、時代の病理学的現象をも見逃すことなく加え、それら全体の社会の様相と制度的な社会の仕組みとを、機能的な社会の動きの特性に加え、その総合的な時代特徴を「モダニティ」と称したのです。
 ジンメルの社会学は、彼自身が「自分は哲学者である」という自覚で生きていたのですが、理念的な哲学の分野では満足することが出来なかったのでしょう。結局、人びとへの愛情を大切にする彼の素質から、実践的な彼独特の社会学を創ったことになるのです。

 
 ポスト モダンは、近代を越えられるか
 
 モダンは機能的な動力と感覚を主体としておりました。では、それにつづくポスト モダンとは何か。モダンが「機能」なら、それを取り巻く「構造」がポスト モダンの特徴だと思うのですが、もの事を全体の枠の中での構造から捉えるようになったのです。しかし、この構造主義は最初、レヴィストロースの民族学的研究から起こったものです。それを精神分析にまで応用したのがラカンで、言語学的に敷衍して社会に当たったのがロラン バルトで、社会の権力と制度を歴史的に解明したのがフーコーでした。
 しかし、これらすべてが、人間とか国家とかの枠組みの中での内部の仕組みを対象としていたのです。そして、構造主義の構造を解体する作業をして“脱構築(デ コンストラクション)”を主張し、後期構造主義に変じたのがデリダなのです。
 また、1972年に出版されたドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の底辺にあったものは、アルトーの俳優論の「器官なき身体」でした。その器官の意味を国の政府と制度の意味に解釈して、その政治と制度を革新する意味に応用したのです。
 これら哲学思想の構造主義/後期構造主義と芸術スタイルとしてのポスト モダンの風潮が時代的に平行、交差していたのですが、厳密に言うと、ポスト モダンという呼称は、最初、建築家の間で使われた芸術形式だったのです。日本でいえば磯崎新などが最初に始めた建築様式に対して言われたものだったのです。更に元を正せば、それまでのモダン形式をあまりにも象徴的に抽象単純化したル・コルビュジェに対する反抗でもあったのです。そのことをアメリカの社会学者のデヴィット・ハーヴェイが彼の著書『ポストモダニティの条件』の中で説明していることによると,次のようになるのです。
 モダンを継ぐ「ポスト モダン」は何時、どこから始まったかは、アメリカの建築家の間では、ル・コルビュジェのモダニズムの象徴的建築物であるセントルイスにあるブルーイット・アイゴー住宅団地を倒壊した1972年7月15日午後3時12分ということになっていて、この時から建築家たちは新しい様式で家を建てはじめ、他のアートも生活様式もその傾向によって動き出し、世界全体がその時代様式に移ったという現象事実にあるのです。
 
 さらに、歴史的に観ると、アメリカのカニングハムやアンナ ハルプリンの弟子たちがジャドソン チャーチで始めたダンス形式を、それまでのマーサ グラハムを主体とする「モダン ダンス」の動きに対して批評家が「ポスト モダン」と称していた事実もあるのです。
 ただ、これらの「ポスト モダン」と、1980年代にフランスの哲学者たちの影響下で起こった時代風潮とは若干異なるものと考えたい。
 
 それは、フランスのロラン・バルトやジャック・デリダを先頭にしたものでした。しかし、このポスト モダンの風潮以前に、同じフランスの哲学者のジャン=フランソワ・リオタールが1979年に『ポスト モダンの条件』を出版し、別の角度から物議を醸し出してもいたのです。
 これは、本来は芸術批評論としての内容だったのですが、歴史的な近代という時代に対して疑問を呈するものでもあったのです。彼の説は、これまでの近代はすべてを「大いなる物語」として包括してしまうことへの不信感だったのです。それに対して彼が掲げるポスト モダンの条件というのは、現代においては「知」が情報化され、当人から分離されたまま売られている。本来の「知」の真実さを失ってしまっているこの状態から自らを救い出すことこそが第一に行うべきことである、という主張なのです。
 しかし、この説に対して、ドイツのフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスは、彼なりに近代という制度に対して問いかけ、彼が主張する「公共圏」の立場から、近代が抱き持っている伝統的なものに対して、各人がその公共圏の中で、理性を働かして積極的に意見を述べ、社会を変化させて行かなくてはいけない、というコミュニケーションを主体とした立場から反論だったのです。
 やがて、東西の冷戦も終り、ベルリンの壁が崩壊して20世紀も終末に向かう頃になると、「近代という時代がここで終わって、次の新しい時代に入ろうとしているのか」という大きな問題が提出されたのです。
 
 そして、この問題に結論づけるかたちで現れたのが、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズを中心とする社会学者の一派でした。その中には前述のアメリカのデヴィット・ハーヴェイも含まれています。彼らの主張とは、「近代という制度形式はまだ終わっていない、もう一度近代を振り返って見て、組織を再編成し「第三の道」を選ぶべきだ」というものでした。
 このあたりの実情を詳しく知るため、ここで1990年に出版されたギデンズの『近代とはいかなる時代か?』(松尾精文/小幡正敏 訳 而立書房)の序論の最初の部分を引用させて頂くことにします。
 
 「これから私が展開するのは、文化論と認識論を加味したモダニティの制度分析である。その際、私の意見は近年の多くの議論とかなり見解を異にするが、それは、互いに正反対の点を強調しているからである。まず、モダニティとは何か。手始めに、「モダニティ」とは、およそ一七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界中に影響が及んでいった社会生活や社会組織の様式のことをいう、と簡単に述べておきたい。この規定では、モダニティを、それが最初に確立された時期や地域と結びつけて考えているが、さしあたりモダニティの主要な特徴については慎重にブラック・ボックスに入れたままにしておきたい。
 二〇世紀末の今日、多くの人びとが論ずるように、われわれは新たな時代の幕開けに立ち会っている。社会科学はこの幕開けに対応しなければならないし、また、この幕開けは、われわれをモダニティの彼方に連れて行こうとしている。こうした時代の転換を指称するために幻惑するほど多様な名称が提唱されており、なかには、(たとえば、「情報社会」や「消費社会」といった)新たな社会システム類型の出現に積極的に言及するものであるが、そのほとんどは(「ポスト・モダニティ」や「ポスト・モダニズム」、「ポスト・工業社会」「ポスト資本主義」など)むしろ既存の社会のあり方が終わりを迎えはじめている点を指摘している。この問題をめぐる論争では、主に制度変容に焦点を当て、とりわけわれわれが物的財の大量生産に基盤を置いたシステムから、もっと情報に中心を置くシステムへ移行していると主張する議論も一部でなされている。しかしながら、これらの議論は、通例、主に哲学上の認識上の問題にむしろ焦点を当てている。その点は、たとえば、ポスト・モダニティという概念を最初に広めた責任を負う論者、ジャン=フランソワ・リオタールに特徴的な見地である。リオターによれば、ポスト・モダニティとは、認識論を基礎づけようとする努力や、人間が画策した進歩にたいする信仰からの転換を指している。ポスト・モダニティという状況は、「壮大な物語」------  われわれが、動かしがたい過去と予測可能な未来を担った存在として歴史のなかに身を置く際の手段となる、そうしたすべてを包摂する「物語の筋」----- の消散を、その際立った特徴にしている。ポスト・モダンという見地は、複数の異質な知の主張を容認しており、その主張では、科学が特権的地位を占めることはない。
 リオタールが表明したような考え方にたいする典型的な反応は、理路整然とした認識論が確立可能である-------- したがって、社会生活や社会の発達様式に関して一般化が可能な認識を獲得できる------- ことをさらに証明すべきである、というのである。しかし、私はそれとは異なる取り組み方をしていきたい。社会組織について体系的認識を得ることができないという感情のなかに表出する方向感覚の喪失は、自分たちには完全に理解できない。大部分統制が不可能に思える事象世界のなかに自分たちょが巻き込まれているという、われわれの多くがいだく意識に主に起因している、と私は主張したい。なぜそうなったのかを分析するためには、ただポスト・モダニティ等々の新語を創作するだけでは不十分である。むしろ、ある明らかな理由から従来の社会科学では十分解明がなされてこなかったモダニティそのものの本質について、もう一度考察し直す必要がある。われわれは、ポスト・モダニティという時代に突入しているのではなく、モダニティのもたらした帰結がこれまで以上に徹底化し、普遍化していく時代に移行しようとしている。モダニティの彼方に「ポスト・モダン」という新たな、いままでとは異なる秩序の輪郭を確かに目にすることができる。しかし、その秩序は、現在多くの人びとが「ポスト・モダニティ」と称している秩序とは、明らかに異なるものである。  --------- 」
                                 
  日本の若者文化としてのマンガ、アニメーション、映画。それにフィガーなどに主体的に現われていた彼らのサブカルチャー運動は、それまで「西洋に学び追いつけ」という方向性を中止したものだった。また、日本文化の代表として西洋に提示していた東山文化から標的を転じ、先ずいちばん近い近世の「江戸文化」に振り向くことを手始めに、平安朝時代から古代にまで歴史を遡って、その中に自分を見い出そうとする気風が起こったことは、この世界という現在時で「レフレクション 再帰性」という思考の転回が行われたからだった。

 また、ギデンズなどと違う道から「歴史は、過去を振り返ることによって前へ進むことが出来る」と言ったベンヤミンは、彼の「パサージュ論」によって19世紀から始まる「モダニティ」を求めた場所は、ナポレオン三世がつくった大道り(ブールヴァール)の内側に取り残されている「パサージュ(通路が蜘蛛の巣状に混み入った商店街であり、人びとの散歩道でもあった。特徴は雨の場合を考えて天井をガラス張りのアーケードにしていること。)」でした。
 エンヤミンはパサージュを対象に観察することによって発見したものは、「ヴァルール、プロセス、作用がつくるモダニティの“機能”とは違って、それは「くもの巣状に張り巡らされたWWW、袋小路の行き止まり、思いがけぬ大道りへの抜け道」の、人間の思考の忘れられた道を暗示するものであったのです。そしてまた「内と外」「閉ざされた空間から開かれた空間へ」の問題を暗示する空間現象でもあったのです。
 このベンヤミンが新しい思考を生み出す対象として選んだ「パサージュ」のイメージが湧かない人のために説明しますと、次のような説明になります。
 今でも何々銀座として東京に残るアーケード商店街を、1本の筋道だけでなく、もっと複雑な、例えば岐阜市の柳ケ瀬商店を人が路に迷うように蜘蛛の巣状に複雑にしたものと、想像して頂きたい。
 更に納得するためには、六本木ヒルズがわざわざ店を探すのに迷うようにぜんたいの構図を造ってあるのは、この「パサージュ」のイミテーションである、ということです。お台場の「ヴィーナス フォート」もその典型例。その後に出来た六本木の「ミッド タウン」は、危険度を怖れて、この迷路の部分を少なく、オーソドクスに戻したものです。
 そしてこのような「パサージュ」の店が突然流行したのは、パリのポンビドー センターで「ベンヤミンの展覧会」が開かれ、その影響でラスベガスがこの「パサージュ」風の商店街をつくって評判になり、それが日本に伝播した、というわけです。


 アダム・スミス と グローバルな時代
 
 アダム・スミスが1776年にイギリスで『国富論』を出版した頃は「重商主義」の時代で、同じ商品でどれだけ儲けることが出来るかを競っていた時代だった。それに対して「労働価値説」というのは、その商品をつくるのにどれだけの労力を要したかで、商品の価値を決める説なのです。
 この「労働価値説」はアダム・スミスからイギリスの経済学者デヴィット・リカードに接がれ、その後にマルクスによってプロレタリア階級のために『資本論』が組み立てられたのです。
 分業化され単純化された作業の中では、人間の「価値」という問題がそこでは平均化されていたが、「価値」というものを時代がつくる状況の中で、いかに価値が生じ、どのような作用がそれを動かして行くかという新たな問題が提出されて行ったのです。
 その後、社会学物のジンメルは、「価値」と、それに向かっての行為としての「作用、または操作」と、それが働く関係経路としての「プロセス」の三者を重要な要素として捉えたのです。
 時代精神としては、その底辺には産業、鉄道などによる「機械が物を動かす」という「機能的な働き」の観念があり、それが社会を動かしているというのがモダンの考え方の特徴なのです。歴史的にみると、その後の「構造主義」の時代、それにつづく「脱構築」の時代以前の特徴なのです。
 その機能を包むかたちで次に考え出されたのは「構造」で、構造という思考が働くには、国家という枠組みと組織という制度が必要になってゆくわけです。物事をぜんたいから見ることで、したがって、近代の枠組みとしての国家が主体となるのです。それに対して「脱構築」というのは、革新的な意味から、目の前の制度をいかに解体するかを問題にしたのです。

 アダム・スミスが経済学における重要な項目として取り上げた「分業、市場、貨幣、労働価格、労働の賃金、資本の利潤、国民資本など」のなかで、中ほどの「労働価格、労働の賃金」の部分がモダンの時代に問題視され、そこから国の全体的構造の問題として、「全体と部分」の関係が揺らぎ始めたのがポス モダンの時代で、「貨幣」の流れを転機として、国家の枠組みを越えて前掲の「分業、市場、」と後掲の「資本の利潤、国民資本」が国家の枠組みを越えて複雑に絡みはじめ、そのため強固に枠組みをつくっていた欧州連合帯のEUが思わぬユーロの苦難を嘗めているという現実から、人間よりも「貨幣」が主体となって国または連合体の外で動きはじめたのが、現在のグローバル世界なのです。

 そのグローバル世界での現在(2013年10月)のアメリカの状況を素描すると、次のようになります。
 事の起こりは、アメリカの上下議院の「ねじり現象」によってオバマが提出する国民皆保険制度が通らないことが最初の原因で、それに続いた最も重要な2014年度の会計予算が通らない、という時点に至ったのです。そして、このまま議会の対立が続けば米国債の債務不履行(デフォルト)が避けられない状態になっているのです。
 結果、大統領が10月に予定していた、28日のバリ島で開かれるAPEC首脳会議とTPP首脳会議。9,10日のブルネイでの東アジア首脳会議に出席出来ず、この原稿を書いている10月17日がちょうど政府債務上限の期限になっているのです。
 米政府の債務上限は法律的に決まっていて、現在その限度である16兆7000億ドル(約1630兆円)に既に5月には達していて、今は政府内の資金融通で凌いでいる状態なのです。それもこの17日が限度で、ルー財務長官がこの10月1日に下院の共和党を代表するベイナー下院議長に書簡を送り、議会が政府債務の上限引き上げを認めるよう依頼している状態です。
 
 そして、今日17日の朝刊によると、16日に上院の与野党幹部が超党派の打開策をまとめ、暫定的な債務上限引き上げや政府の全面再開などで合意したと報じています。しかし、米国債のデフォルト(債務不履行)が回避できるかどうかは、下院が上院案を可決するかどうかに焦点が移っている、と報じています。
 結局、この執筆を休憩した後の午後になって、米議会の上下両院は16日の夜(日本時間17日午前)、2014年2月末までの米政府の債務上限(借金の限度額)引き上げと、米政府機能を再開するための14年1月までの暫定予算を盛り込んだ法案をそれぞれ賛成多数で可決したことを知りました。
 が、このことは、数か月の時間稼ぎで、いづれ米債券のデフォルトと政府機能の一部停止という異常事態が何時起るとも限らないのです。
 このような状態では、アメリカはすでに「パックス・アメリカーナ」の地位を既に失っている、と言えるのです。

 先ず、近代国家を形成する国民のための経済と、国境を越えたグローバルな交流のための経済とが、いま国境の内、外の関係としてクローズアップされる時代となっているのです。貨幣が先端を切って、国境を越え、それぞれのグループで通貨戦争を演じる段階に入っているのです。
 物を製作する上での分業が、各国で造られた部品が国境を越えて集められ、完成品として組み立てられるプロセスとして演じられるグローバルの時代となったのですが、部品工場と完成品の組み立て、最後の輸送までのプロセスを、それが外国の商品であるのに、すべて中国の地で中国人で成されているとしたら、どうなるか。そして又、その作業がタイとかベトナムに変じたとしたらどうなるかを考えてみると、このグローバルという世界が透けて見えて来るのです。
 また、輸出の段階でドルまたは円が安い場合、アメリカと日本が輸出において得なのですが、ドルと円が安いということは、本来はドルと円の価値が下がることになるのです。ここに矛盾と、事の不公平さが見えるのです。それは基軸通貨国のアメリカのドルとそれに準じる日本の円を、その中央銀行であるアメリカのFRBと日本銀行とがみだりに金融緩和してドルと円を乱発すること。G5やG20などが互いの基準によって、輸入、輸出のバランスを決めることに成功していないこと。これらの不当行が原因なのでしょう。
 要はパックス・ブリタニカの後をパックス・アメリカーナが第二次大戦以後に継いだのですが、ニクソンが金本位制からドルを外した「ニクソン・ ショック」以来ドルが権威を失い始めたのです。それ以後、アメリカは金融緩和を矢継ぎ早に行って、最早この2013年10月に至って、上記のような状況になっているのです。
 しかし、これは「アベノミックス」のばあいにも、われわれは合わせて考慮すべき問題なのです。

 
 終 章

 ジュゼフ・F・スティグリッツが、彼の著書『世界の99%を貧困にする経済』で述べているように、世界の1パーセントの政治家と資本家たちが自分たちだけの利のためだけに動いているのです。そして、財務省を中心とする各省が「財務拡張」によって膨大な予算を放漫に使用して来た過去を国民は管理することが出来なかったのです。
 金融という金銭の架空の動きが国境を越えて動き出した現在至っては。、もはや元に戻ることは出来ない。それをどのようにプラスの方向に変えることによって近代を越えるほかないのだが、今のところは自国の利益ための通貨戦争の場となっているのです。
 しかし、本来の商品作りとその交換による商売というものはそんな筈のものではなかった筈なのです。
 良い物を創って、それをお金と交換して相手に喜んで頂き、そのことによって相互に親しい交友関係が結ばれる。そして本来は「お金は溜め込むものでなく、使うためのものでる」。その考えこそ、経済学を倫理学の一部と考えていたアダム・スミスと共通するものです。「貨幣」が「資本」へと膨らんで、それが「私欲」と結びついたらば、折角の海外での「分業」で互いに利を分ち合うことによっての「友好」を結ぶ機会を失うことになる。理想的なグローバルの世界から見たばあい、国の野望から戦争を起こすこと、環境を汚すことによって、地球の気象を生活できぬほどまでに乱すことは、もはや時代遅れなのです。

 ルーマンの社会システム論に生物学の側から影響を与えたチリ出身のフランシスコ・ヴァレラは、その後フランス国立科学研究センター研究部長となり、2001年5月に逝去しましたが、彼は晩年にこの世に言い残したいことは、仏教を大乗仏教から讀みなおさなくてはいけない、という勧告でした。それが仲間の協力を得て『身体化された心』として纏められたのが1991年でした。これはヨーロッパに対してだけの忠告ではないような気がします。
 それに、驚くべき現象が、身近な中国で今起こっているのです。あの利にばかり走っていると思われていた中国の民衆が、政府官僚の賄賂の酷さと、自分たちの身は一生「99%」の枠の中から抜け出せないと自覚することから、突然伝統的な精神に気づきはじめ、それが急激に広がり始めているのです。内訳を言うと、民衆がキリスト教の教会、あるいは家庭を教会代りにした「家庭教会」に集まりはじめ、一方では儒教の信仰による「道徳観」に向かう民衆の心が驚くべき勢いで増して来たということです。そして政府としても各地で起こっていた経済的格差の不満からの暴動を軟化させる目的でそれを推す方針を取っているようで、この現象は長い中国の歴史から考えると、いづれこの運動は政治的に押さえきれぬほどの動力に拡大するだろうことが予測されます。

 ここで、われわれとしては、あの経済学の聖書とも言われる『国富論』を著したアダム・スミスは、この書物を倫理学の道徳の立場からこの本の著作に当たったことを思い出すべきです。
 そして近代から新しいグローバル世界をこれから創ることを負わされたわれわれとしては、目前の成すべきことの整理と、日本の伝統的な「心と精神」の問題を大切にすべきだ、ということです。

これは、予定された鴻英良氏との対談のため、予め基調文となるものとして2013年17日に書かれたものです。


    及川廣信ダンス公演

『ゴッホ、アルトー、ウッチェロへとめぐる 一つの神話
 
  ※ この作品は平面→立体→現実空間→細分化 によって、
日常の場そのものが生体として動き始め、現実が即、神話
であることを(下記、第1場〜第4場をもって)提示する。

   「 ———— 私には、こんどこそ、
   まさしく今日のこの日に、
   まさしく今、
   この19472月というときに、
   現実そのものが、
   現実自体の神話が、神話的な現実そのものが
とりこまれつつあるように思われるからだ。
(アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ —— 
社会が自殺させた者』粟津則雄訳、筑摩書房)

 
【第1場 “中(ちゅう)する” ということ】
(1) 易経に “中(ちゅう)する” という言葉が出て来ます。
 私は矢野さんのこの(ニューマンから受け継いだと思われる、カンバスの画面を二分し対立させた)画面構成から、自然的に“陰陽”の対比を思わざるを得なかったのです。というのは、アルトーとの接触以来、アルトーが当時予測したものを、東洋の身体メソッドによって証明することを義務づけられた、と自認しているからです。
 “中(ちゅう)する”ということは、どういうことかというと、上の二分され対立する画面の間に通路を置いて、たとえば右サイドを開放的な意味を持つ“陽”とし、左サイドを凝縮した力を持つ“陰”とする。そして、その間を歩行するということは、この右サイドの“陽”と左サイドの“陰”から影響を受けざるを得ない、ということです。“易経”の“中(ちゅう)する”という意味は、自然の中に生かされている我々としては、その時の周りの様相に的確な処置をとるということにほかなりません。

  そして、“中(ちゅう)する” という意味は、からだの中心線の重要さに対して、タオが “中(冲)脈” という言葉を使用するのと相通じるのです。
 からだの重要な中心線上に背柱があり、その中に脊髄が通っている。そこの造血機能を持つ赤色脊髄は、“元(原)気”を所有する腎臓の指示を受け、“血液細胞”を産出しているのですが、空海によると、そこは宇宙と合一する「アー」の音で、色彩は「黒」なのです。インドの古代語であるサンスクリット語の「ア」は否定の意味を表わし、「ア」が接頭語として付くと、その後に続くものを否定することになる。それ故に「アー」はすべての現象を否定して、その奥に隠れている宇宙の中の根源的なものと合体することになる。その絶対なる真理を「本不生」という。
 ここで、矢野さんが何故最初にカンバスに黒を塗ったか、の理由が釈明されるのです。その上、興味を持ったのは、矢野さんがファン・ゴッホの晩年の名作「黒い糸杉」のイメージを大切にしていることでした。

 (4) 私のダンス作品の第1場は、日本の着物の帯が左右に敷かれた間を “中(ちゅう)する”ように歩いて行く役を、ゴッホの「黒い糸杉」に演じてもらうことにしました。植物である「黒い糸杉」はなぜ歩いてゆくのか。それは悪魔が退散した夜明けの4時ごろに、その黒い糸杉が憤怒のため “青黒く” 変じ、「蔵王権現」のように怒りをこめて歩き出すのは、なぜか。
 それは、人間の中心部である「植物性」が語る真実なので、ここにゲーテの「葉」を“根源(UR)” とする”形態学”が絡んでくるのです。ゲーテの“根源(ウル UR)” なるものを代表する、植物の「葉」の意味するものは、果たして何なのか?
 それは「種子」のような時間的な起源とは違う。それを説明することに大変な困難を要するのですが、植物が葉の葉脈を通じ化学的に自然との交流のバランスをとって生きてゆく、そのことが最初の易経が述べる “中(ちゅう)する” に相応するのでしょう。
 では、人間の中心部にある植物性としての「黒い糸杉」が、なぜ青黒く怒りを込めて明け方に歩き出すのか。それを説明するためには、密教の「金剛界マンダラ」と吉野の「修験道」との関係を、以下に語るほかないのです。

 (5) 修験道の聖地、吉野山蔵王堂に鎮座する蔵王権現は、恐ろしい神力を持つ。その怒りの形相と青黒い色で恐れられているが、この修験道独自の神も元を正せば、修験道と密教との深い繋がりによる「密教の構造とその教えの方法」に沿っているからです。
 そもそも密教の中心的な仏は、釈迦から大日如来に変更していますが、それは変更というより、人間的な釈迦から宇宙の中の太陽を象徴する大日如来に昇華したと考えるべきでしょうが、一方、釈迦と大日如来との関係は、キリスト教のキリストと神との関係に似ています。
 ただし、仏教の場合はそれより複雑で、仏身には次ぎの「三身」があるのです。つまり、釈迦が悟った真理が「大日如来」で、これは歴史的な人物というより「法・真理」なのです。ですから釈迦やキリストのように上から地上に「教え」のために応じて降りて来た「応身」ではなく、大日如来は「法身」なのです。そして仏身としてもう一人、阿弥陀さまがいます。阿弥陀さまは過去世において、この世の苦しんでいる人びとを救おうという願いをたてられた、その報いによって「報身」として加わったのです。

 (6) しかし、この顥教の「三身」の考えは、密教になると大日如来の太陽のシンボルの下に、東西南北を支配する金剛界の四仏に代わります。即ち、東の阿閦(あしゅく)如来、西の阿弥陀如来、北の宝生如来、南の不空成就如来です。そして、この東の阿閦(あしゅく)如来は、けっして怒らないという誓いを立てた筈なのに青黒い顔をして、悪に対する「怒り」を表現しているのです。
 密教は語り出すとなかなか複雑なので、今、目前の問題に添うために端的に述べさせてもらいますが、前述の修験道で大日如来の代理として崇拝されている“蔵王権現”は、この“阿閦(あしゅく)如来”の変身なのです。
 この怒りというのは外部の悪に向うというより、本来は自分の心のなかの “貪”(どん、むさぼり)、“愼”(じん、憎しみ、いかり)、“痴”(ち、おろかさ)の「三悪」に向かってなのです。そして、本当は怒りと同時に、他人に対する暖かいゆとりもある心の、微笑みも同時に表わすべきなのです。
 人間のからだの中の“樹”を表わすものは、「枝葉」につながる肝臓のはたらきと、眼の演技です。そこから歌舞伎の演技が参考になります。しかし樹が歩くとなると、道元の「山が動く」の難問を考慮せざるを得ないのです。これは先の“中(ちゅう)する”に通じるものです。

 (7) 密教は、宇宙の原理と人間の実践修行の図を示すのに、胎蔵マンダラと金剛界マンダラの両界マンダラを使用しています。この二つは対称的に解釈されていますが、歴史的には別々に創られたものです。胎蔵マンダラは“大日経”を、金剛界マンダラは“金剛経”をそれぞれ教本としてつくられたものですが、胎蔵マンダラは「理」を、金剛界マンダラは「修行の実践」を意味しています。
 そして、この両マンダラを通じて密教の趣旨が理解されるのですが、教えを説く如来と、それを聴く菩薩は表面的には地位が違うように見えますが、実は聴いている当人が説いている如来そのものでもある、という逆説が仕込まれてもいます。
 顯教の禅宗では釈迦の両脇侍として扱われていた文殊菩薩と普賢菩薩が、大日如来の代理を務めたり、鬼神としての金剛薩埵(さった)が普賢菩薩と同体になるだけでなく、金剛手や金剛薩埵(さった)のような鬼神も、大日如来の役割を演じることにもなるのです。
 そして、空海はとくに鬼神の不動明王を重要視し、大日如来の代理として捉えてもいたのです。このあたりに密教解釈の難しさと奥の深さがあるようです。

 【第2場 “ゆったりと、ただ無心で ” 行為する → 色価の顕われ】

 (8) John Cage の「 in a Landscape 」に対する私の関心は、最初にそれを初めて聴いたときから始まったのです。これがあのジョン・ケージの曲なのか? という驚きからそれは始まったのです。「———— 塗り絵師の機能はまた、意識的に組織されていない(したがって分析されえない)やり方で果たすこともできる。つまり、自我の命令にしたがって、手探りで気ままに行うこともできようし、自動書記におけるように潜在的な精神の命令にしたがい、自己の精神の構造に照らしながら内部に向かい、夢の地点にまで入りこむことによって、おおかれすくなかれ無意識的に行うこともできるのである。(———)つまり乱数表を用いて確率に対する科学的関心にしたがったり、チャンス・オペレーションを用いて、何であれたまたま起こる事態と一体化するのである。」ジョン・ケージ『サイレンス』(柿沼敏江訳、水声社)
 ここに書かれていることが、それとも、たまたまか私がこの第2場でやろうとしている二筋の日本の帯の中間を渉りながら、偶然的に遭遇する私のからだの部分と帯の部分とが繋がることによって、どのように色価が変化するかの現象の顕われを、ゴッホが描いた「ひまわり」の色価の問題と照合させようとする意図があるのです。

 (9) 光は見ることと関係している。光がないと見ることが出来ないし、色も生じない。色彩は、表面的な感覚だけでなく、内的な意味と価値を持っています。そして向こう側の神秘世界と、日常の現実世界と、その間の境界の色がそれぞれ異なる。そして、この三つを繋ぐ緑の紐とそれらを覆う青色の段階が、この第2場では重視されているのです。
 そして、帯が持つ色彩との関わりの“パサージュ”と“プロセス”においては、「偶然性」と方向性の「十字」、また四角の安定性とそれを対角線で分解した八つの三角形を巡る「分子状の働き」が注意されるのです。

 (10) また各人の価値(ヴァルール)も、その細部を見る力(光)が自分にあって、自覚することができ、他人に見る力(光)があってその価値が認められます。
 内部に向かう光りというのは、自己反省も含まれるが、第1場の「三悪」の場合も、この反省の光りで細分化され溶けることもできるのです。仏教と神道はその力を持っているので、我々はそれを誇りとすべきでしょう。
 “光”というものが、このように象徴化されるが、本当は、物理的に現在、電子顕微鏡で原子の状態を、静止状態を超えて動く状態までも見ることができる、それは強烈な光りをそれに当てる技術が発明されたからです。

 (11) この世とあの世の色。その境界線と飛び地の色。それらを結ぶ緑の色。総合する青い色。これらは理念でなく、糸と唇と舌が織物につながるのですが、縦糸はスートラ、横糸はタントラです。ここで太陽と大地と中空の気の関係を探るのですが、密教と繋がる修験の道でもあるのです。

 【第3場 “細密化する” ということ】

 (12) 細密化は外部と内部に向かって行なわれる。まず、身体を我が身の外部として捉えた場合、さしあたり今問題の“神経”について考えてみると、神経は先ず最初に、伝達ホルモンによる外部知覚の伝達を目的とするものでした。それが外部をよく知る必要から五感に分かれ、器官としての聴く、見る、匂う、触れる、味わう、の五官が備わり、立体的な感覚空間が生じます。
 しかし、神経は外壁系の大脳において知・情・意の分化と情報処理が行なわれると同時に、それとは別に内壁系の腸が舌及び口腔から外壁系の顔面にまで侵出した場合、本来外壁系のものであった神経が、29対の表情筋として内壁系の顔面で働く場合には、神経の働きの差が生じることになります。
 ここで、はじめて能面の表情の複雑さが理解されます。能面は一つの面の微妙な傾きによって、怒りと微笑みと悲しみを見せる。それらの感情は、本来、奥深い場において融合した諸々の感情を代表するもので、その三者が奥に治まった状態が “幽玄” なのです。

 (13) 同じ「形態学」でも唯脳論の養老猛司氏の分野と、“内臓とこころ”を主体とする三木成夫氏の分野とが違うように、日本の「形態学」を拓いた小川鼎三氏が捉えた仙骨の神経の微妙さはまた別の分野なのです。この仙骨の八つの穴は、“易経”の八卦と“風水”のアンテナの役割をします。
 そして、数学者の岡 潔氏が難問を解かれる際に感じる“情緒”なるものは、この神経の伝達構造とどのような繋がりを持つのでしょうか。五官の神経は体内でそれぞれ連結している。そこで「味を見る」とか「匂いを聴く」とかの言葉も生じるわけで、“観音菩薩”の名も、音(人の噂)を聴いて直ぐその人を観にゆく菩薩、という意味なのです。
 これら五感を統一するものは何かというと、空間的な広がりの意味からなのか、それは“音”なのです。“音”は耳の斜め上のところで、太極拳など身体に急を要する場合に使われます。しかし、“音”が五感を統治するといいましたが、それはあくまで身体を基準にしての話で、自然的宇宙を考えると、それは“光”なのです。

 (14) さて、ここで細密化の問題を、“音”自体に向けて語ってみましょう。
 ケージは彼の著書『サイレンス』の中で「最初に空白があり、そこにノイズがあって、その後、音楽家のための音がある」と、彼のスタンスを語っています。「この“音楽”という言葉が神聖なものであり、もっぱら18世紀、19世紀の器楽に使われているというなら、我々はより意味のある用語、〈音の組織化〉という語をかわりに使うことができる。」といい、ついで「電気楽器の特別の機能とは(ノイズとは逆に)音の倍音構造を完全にコントロールすることであり、またこうした音をどのような周波数、振幅、持続によっても使用できるようにすることだろう。」と語っています。
 音楽というものは、西洋ではギリシャ以来の調音の下に作られていて、耳に心地よい感じを与えるものでした。やがて、それに反する12音音楽やノイズ音楽がつくられ、しだいに音楽家の一部は、音楽という言葉を使うことを嫌いはじめたのです。
 ついで「音楽家」の代わりに「音」という一文字を使うようになり、やがてカールステン・ニコライや池田亮司などが、それまで楽音として使われていなかったサイン波やパルス波という電子音の原音を使用しはじめたのです。

 (15) そして今回、無音をベースに「電子音の組織化」をテーマに取り組むイタリーのスチュピオという作曲家を根本忍氏から知らされたのです。
 このスチュピオという作曲家が提示する音の例は、これまで悩んでいた音とダンスとの関わりをいっぺんに解決してくれました。というのは、スチュピオ氏のこの「音の組織化のための提示音」は、ダンサーのからだに刺激と方向性を与えるだけで、強要しないのです。空白をベースにイメージの創造余地を充分に与えてくれ、しかも細密な関係をどこまでも追求してゆけるのです。
 このようにして身体はいたずらに情緒に流れることなく、舌の裏側にある “双龍” は大地と繋がり、舌先は糸のように分かれて中空の事物に向かい、皮膚はベンヤミンが奇しくもいった通り「唇から始まり、唇で終わる」のです。
 そして大地こそ我々の身体に力を与えてくれるのだが、それは太陽の陽(ひ)を受けているからで、その循環の理を知った上で、太陽は昔ながらに510の波動を注ぎ、月は地球を通じて612の周期を与えているのです。

 【第4場 “物質の反抗” → 大洪水】

 (16) 循環呼吸をしながら、唇を振動させ、舌を動かして演奏するオーストラリア原住民アボリジニの木管楽器ディジェリドゥによる演奏は、この場にとても相応しい。
 何故なら、唇と舌によって矢野氏の絵画に手織られた糸を手繰り寄せることは、ビッグバンのあと拡大する宇宙空間の圧力を感じ、ファン・ゴッホが晩年に描いたきらびやかに溢れる色彩が、アボリジニの描く絵と混合して、ちょうど気象の流れのように押し寄せる状景に立合うことになるからです。
 アボリジニが描くあの細密なペインテイングが、激流のように流れだし、遠くに耳鳴りを感じる、と思う間もなく「大洪水」が襲い、歴史が築いた文明と文化を跡形もなく洗い流してしまうのです。
 それは、日常のからだの動きのサイズと、唇と舌による動きのサイズの差が神経を狂わせ、日常には見えなかった世界の振動を覗きみた幻影なのでしょうか。しかし、それはアルトーが日常的に見て感じていた風景のようにも思えるのです。そして、この感覚こそゴッホのあの「カラスの絵(烏の群れ飛ぶ麦畑)」の奥にあるものに共通しているのです。

 (17) アボリジニは、よく大地を渉って旅をする。そして住んだ跡地にエネルギーとスピリットを残す。彼らには歴史という時間がない。語り継がれた天地創造の神話の中で生活している。その生活が “Dreaming” なのです。
 文明社会が細密化するということは、ある意味で解体への道を進んでいることになる。なぜなら自然に反する文明を築いてゆく人間は、第1場で説明した“三悪”が細密な関係性の中で進捗し、結局は自然環境と物質の側からの反抗を受けることになるからです。宇宙と地球も人間と同じようにスピリチュアルなリズムを持って生きている。人間の科学が細密な次元に進むほど、地球とその上にある世界は危険な局面に遭遇する虞れをもつ。それが、パオロ・ウッチェロが描いて警告した「大洪水」なのです。

 (18) ルネサンスの画家ウッチェロは、“ノアの箱舟”の神話によるフレスコ画の「大洪水」をサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に残しているが、その独自の遠近法によって名を成し、通称、ポオロ・ウッチェロ(“鳥のパウロ”)と呼ばれていた。
 この“鳥のパウロ”という呼び名は、自分が住んでいた部屋の壁一面に鳥の絵を描いていたからだ、とも言われていた。
 1412年頃、彼はロレンツォ・ギベルティのアトリエに弟子入りする。ある日一人アトリエに居残ったウッチェロが、アトリエの片隅に重ねられていた師匠の描いた絵のうえに、まるで蜘蛛の巣が張ってあるかのように蜘蛛の巣の糸を描き、その中央に蜘蛛も加えておいたのです。このいたずらが発見され問題となって、後でそれがパオロの仕業と知れて師匠に怒鳴られることになるのだが、その結果、ウッチェロの技が評判となります。

 (19)  アルトーは、1926121日号の「シュルレアリスム革命」誌に『毛のウッチェロ』という題名の下に、次のように呼びかけている。「君が、充分に手を加えたキャンヴァスに、君の二人の友と君自身を描いたとき、君は、キャンヴァスのうえに、奇妙な綿毛のかげのごときものを残した。そして、私は、パオロ・ウッチェロ、天啓を受けることなき者よ、私はそのことのうちに、君の悔恨と君の苦しみを識別する。皺とは、パオロ・ウッチェロよ、紐だ、だが、髪の毛とは、舌なのだ。君の或る絵のうちに、パオロ・ウッチェロよ、私は、歯の燐光を帯びたかげのうちに、ひとつの舌の光を見た。まさしくこの舌を通して、君は、生命のないキャンヴァスのなかで、生き生きとした表現と結びついている。———— 」(粟津則雄訳)
 アルトーのパオロ・ウッチェロに対する心の寄せ方は、最初ウッチェロと同時代に仲間だった彫刻家のドナテルロや、建築家のブルネレスキとの比較で語られたのだが、「ウッチェロ(鳥)のパオロ」と渾名で呼ばれているうちに、パオロ・ウッチェロが本名のようになってしまっていた。この彼の鳥への関心に対しても多分アルトーはこころを寄せたのであろう。空を生活の場とする鳥の羽がもつ文様。天空から受ける気象の変化を、鳥がアンテナのようにうける羽の文様は、ちょうどアボリジニが地面に描くドリーミング(夢=神話のなかに生活すること)の図に相応しているのでしょう。
 ギベルティのアトリエで、ウッチェロが師匠の描いた絵のうえに加えた“蜘蛛の巣”の事件以来、「鳥のパオロ」がさらに「蜘蛛のパオロ」とも言われるようになったのだが、アルトーがその上さらに「毛のウッチェロ」と命名している。果たして、これは何を意味するのか。上掲の「毛のウッチェロ」を読むにつれ、これはアルトー自身の生活でもあり、まさしくドリーミングの世界なのです。

 (20) 私は、先月、国立新美術館で、「バレエ・リュス展」の約140点の舞台衣装を観ることができました。ピカソ、キリコなどたくさんの著名な美術家がそれに加わっていたのですが、その中に私はマチスが持つフォーヴィスムの力と、ブラックの、これまで我々が見い出せなかった彼の内面の深さを表わす独特の「色」に、思わず驚きの眼を見張りました。同じ美術家でもキャンバスに描くのと、織るという作業とは全く別で、平面のキャンバスの上とは違った様相が、その衣装の織り目の細部空間に顕われるのを初めて感じました。それはほんとうに驚きでした。
 矢野さんの今度の仕事は、織物ではないのですが、織物から着想を得て、しかも筆を使わず点描しながら絵の具を重ねて、織物の感じを出しています。そして、この矢野さんの絵を「理念的なもの」とするなら、それは密教のマンダラでいうと、両界マンダラのうちの「胎蔵マンダラ」に相応し、それに対して私のパフォーマンス的なダンス作品は、「実践的修行プロセスを演じるもの」なので「金剛界マンダラ」に当たるのでしょう。

 ※ この「演出ノート」に記したことの実践遂行が、豊島さんと矢野さんを初めとし、これまで音について協力を惜しまなかった根本さんを先頭に、当日の舞台実現のために協力される方々になによりも報ゆることになると念じつつ、この筆を置くことに致します。
        (2014718日、及川廣信 記)   

この作品は2014年の8月24日に、八戸市美術館のICANOF第12回企画展において「矢野静明ー種差 enclave」の展示の前で演じられた。
その後、2015年の6月18〜20日に、台湾の台北芸術大学によってワークショップと公演を合わせて招聘された際、2日のワークショップの後、この作品を矢野さん抜きに変更し、3日目に及川独演でなく、相良まゆみと2人で演じた。

Thursday, August 06, 2015

10月公演のために


4)  加藤英弘さん
         
             南部家の人たち(A)

大串孝二さんは、何時も思わぬ発想から意外なことを言い出す美術家です。前のメールでのデッサンの形に対する発言もそうですが、「ひも理論」の時もそうでした。美術と物理学と次元が違うのですが、そんな時、それを私はノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏の学説と対比してみるのです。
この“かたち”あるいは“結晶”との“いろ”との関係については、南部陽一郎氏の「量子色力学説」について私は誤解していたようです。南部陽一郎氏の後を追って研究している学者の研究成果を読んでいた時に、「素粒子には色の付いたものがある」と不思議に思いながら読んだ経験があったのです。
しかし、その学者が南部氏の説を信じて、素粒子には色があると仮定して実験を進めていたからなので、結合組織を知るための「仮定の三色」だったのです。
では、大串さんの「デッサン論」の色は仮定でしょうか、これは真性に向う仮定とも思われますが、実際にそう見える場合もあるのです。

自己の真性が自ら働く時、そして真実性が実際に心の中に生じたとき、色とかたちが表出される。それは事実です。しかしそれを中心で動かしているのは、空海の論で言えば、心の中の“智慧”が悟りを開いた結果の、“般若”という状態になったとき、そう見えるのです。
その“本性”を全ての人が “こころ” の内に持っている筈なのですが、そこまで“悟る”ことが難しいのです。
一方、“こころ” なるものは、目の前の“大空”と同じような広がりを持った大きな空(くう)の存在ですが、それが外界で経験した記憶と関係性で充満しているのです。それらを無いものとする浄化した“こころ” の状態を「無相」の状態といいますが、“かたち” を描いても直ぐ消える、“真実性”や“本性”または“仏性”を見い出す前の座禅によって作りだされる状態です。

しかし南部陽一郎氏の「無相」はそうではなくて、新しい事を見い出す時にも、心の空間の中は外界で経験した記憶がそのまま残っていて、「それに注意を傾けながらもある意味で切断されていて」南部さんの心はいつも“般若”の状態なのです。“般若”の正しい思いでいる、ということは、あらゆることに関わっても、それに執着しないということです。なぜか、南部さんはすでに知らぬ間に自分の修行を終えていて、彼の心の“般若”という状態の中で、“智慧”を思う存分に周りの物と関わらせながら、自分の研究対象に向って無数の発想を作り出すことが可能な人になっていたのです。
なにしろ、あのアインシュタインと論争して、相対性理論と量子力学とが矛盾しないということを予現した方ですから。

実は、南部陽一郎さんは福井県の出身というこでしか、身を明かさないまま亡くなったのですが、出は岩手県の盛岡市の南部藩の家系なのです。この家系は優れた才能持つ家系で、陽一郎さんの従姉妹に当たる数学者の南部範子さんから直接聞いた話しですが、当時の福井県の大野村に、南部藩が所持していた別地があり、近くの寺(というと、永平寺に相応すると思うのですが)にその管理を依頼していた、というのです。が南部範子さんの父の代になって、父の弟がその別地に住むことになり、その子が南部陽一郎さんなのです。

南部家はすでに盛岡の城(石川啄木に「不来方 ( こずかた ) のお城の草に寝ころびて、空に吸はれし十五の心」と詠われた)と、忠臣蔵の「南部坂での別れ」で有名な江戸の上屋敷と、今は「有栖川の宮公園」となっている広大な下屋敷など、すべてを上納させられており、南部陽一郎氏は第二次大戦では戦争にかり出され、帰国後は兵隊服のまま何も持たず、東京の研究所に直行し、夜はその研究室の机の上で寝泊まりして研究をはじめたのです。正しく座禅ならぬ、白隠和尚の“寝禅”で過ごした時期のことを考えると、氏の持って生まれた性質にもよるでしょうが、この仏道修行よりも凄い生活の明け方の目覚めのときに、数知れぬ発想が湧き起こったとしても不思議はないのです。


ここで空海に再び話しを戻し、空海がもっとも重んじていたマンダラについて触れたい。
もともと、曼陀羅には本質とか精髄とかの意味があり、その曼陀羅絵図の中に本質的なもの、あるいは事柄の精髄が含まれているということを意味する。仏の悟りの本質的なもの、あるいは悟りの領域の明確な図を描くために、最初は、土を固めて“壇”をつくり、その上に胡粉(ごふん)を塗って、それを幾何学的な線で区分けし、仏菩薩の集会を描いたのが最初の曼陀羅で、“壇”という字でマンダラを表わすことがあるのは、その歴史的理由によるのです。

曼陀羅には、胎臓マンダラと金剛界マンダラの2つがあって、胎臓マンダラは「大日教」に、金剛界マンダラは「金剛頂教」に由来しており、胎臓マンダラは大日如来の“理法身”、金剛界マンダラは大日如来の“智法身”によって表現されており、“理法身”は絶対なる理法を、“智法身”は完成した智慧を象徴しています。そして金剛界の方は男性的で、胎臓界の方は女性的見方としても見られ、両曼陀羅は唯一絶対者である“法身大日如来”の両面なのです。

胎臓マンダラと金剛界マンダラは、ちょうどエマヌエル カントの「純粋理性批判」と「実践理性批判」との対比に相応うものですが、上述のように作者が同じものでない「大日教」と「金剛頂教」は別々に発生したもので、2つの曼陀羅を両曼陀羅として合わせて崇拝したのは、多分空海の師の恵果(けいか)からではないか、と言われています。
空海は師に従って両曼陀羅を掲げて崇拝し、その解釈をもっとも大事にしていたことは前述した通りなのだが、空海独自の解釈が両マンダラに対してあり、胎臓マンダラは世界の素材として、地・水・火・風・空の物質の五大だけを原理的なものと考えているがそれが形成する全宇宙を生命的なものと捉えていて、金剛界マンダラへの発展的動きも考えていたのです。

そして,一方の金剛界マンダラでは、その地・水・火・風・空の五大に対するものとして、あえて“意識”ではなく、“識”を精神的なものとして、対立あるいは平等化させ、幅広い活動の方向性を持たせている。そして“識”に対する一方の“意”の方は、インド密教とそれを受け継いだチベット密教のタントラヨーガに委ね、これが父(フ)タントラと、母(モ)タントラに別れ、その中の父(フ)タントラから発生したのが「無上ヨーガタントラ」のダライラマの系統です。

この“意”というのは、意志とか意識とは違って、人間のいちばん奥に潜む人間の生命力に関わるもののようですが、それはインドとチベットだけの独自の文化のような気がします。私が思うには、空海はここで、人間だけの宗教的世界に奥深く入ることよりも、人間が自然の中で他の動・植物や有・無機物と生命的にいっしょになる方を選んだのだ、と考えたいのです。そのために身体中心主義の“意”から離れて、“識”だけになった場合、いかに物質的な五大との間に生命的なものを感じ取れるかを先ず試みることが第一だ、考えてくれた、と思いたいのです。これが私の幻想を交えた解釈学です。
それは単に、インド密教とチベット密教に対してのことだけでなく、大乗仏教のナガールジュナの「中論」依来、引き継いでいる、人類に与えられた宿題なのです。

10月公演のために


3)  大串孝二さん に 


                       眞言密教の空海(C)

この通信は、美術家の大串孝二・映像作家の加藤英弘 両氏と及川廣信によってキッド・アイラック・ホールにおいて数年の間行われて来た「アートは症状である公演」に、今回の10月公演では 、アルトー館のメンバーも加わって発表するに当たって、この転換の期に何がわれわれにとって必要なのかを探索する思考のプロセスを、通信として関係者に送り、芸術家の新しい共通の精神領域を作れればという願いから発するものです。

その思考の対象がどこに向うかはランダムですが、目標とするのは、この芸術のポストモダンの流れは未だに終息せずに続いているのは、世界が混乱のまま継続して
一定の方向性が定まらないためなのですが、しかしそのような時にこそ先に、方向性を明示した作品を製作して世界に訴えることが、芸術家の役割りなのではないかと思うのです。
その時に、日本独自の空海の思想をこそ、その新解釈によって世界に訴えればその混乱を鎮める一役を担うことになるのではないか、と思うのです。そして、思うことを、実践してその可能性を海外に向ってひらくことが今の日本の政治状況は必要としているのです。そのことを自覚することが芸術家の役目なのだ、ということを信じて実践するだけです。それこそが前述した空海の「成所作智(じょうしょさち)」の実践的な“智慧”であって、“智慧”のはたらきがそのまま行為として現れることなのです。

日本人としての私たちに、このような時、大切な暗示を与えてくれる人は空海ではないか、と直観的に感じているのです。宗教家としての空海は“慈悲”として、そして哲学者としての空海は、何よりも“智慧”としての空海です。
空海の“智慧”には、先に分析したように「妙観察智(みょうかんさつち)」という、あらゆるものをことごとく微細に観察する絶対なる“智慧”があります。これこそが現在の量子力学の科学の“智”なのです。
それに、現在の世界に欠けているものは、あらゆる生物、草木、山河、大地、諸物の上に充満している、空海の自然に対する“智慧”なのです。

その実践のためのプランは、われわれがこれから作品の上で取り上げる、空海の「識と、木・火・土・金・水」との関係です。
“識”は意識としての精神的なものから、意志的に構造化するもの、幻想を起すもの、識別するもの、細密な粒子としての性質を持つものとしてまで、身体的なものから抜け出して四大と関わることになるのです。

われわれはポスト モダンをある意味で先導して来たパフォーマンスの試行者でした。しかし来るべき新たな世界と時代に向ってすすむ際に、次ぎは、どのような対策をすればいいのか。その実際的活動のための試作品としてこの10月公演を当てるのですが、そのためにも空海の解釈と同時に、これまでのポスモダンの解釈のためにもヒノエマタのアーティスト達の作品をあらたに読み直す必要が起こってくるのです。
これまでの大串さんの作品の中での未来的なもの、加藤さんのマンダラ作品の再評価など。それに、われわれの精神活動の「キー概念」である“智慧”の根源としての“金剛経”と「六祖恵能」のことにも戻らなくてはならないのです。

でもいっそ、大串さんのデッサン論と、先月の7月6日に逝去したノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏の説との対比から、問題に入って行った方が“智慧”の問題に広がりが見え、結果としてその中心点が明瞭になるような感じがしますので、そこから始めることに致しましょう。

大串さんのデッサン論とは、「デッサンは、なだらか円形の線と、角ばった2つの線の交わりと、小さな曖昧な集まりの部分の三つの要素から成っており、その部分の本質的な色は、「なだらか円形の線」は青で、「角ばった2つの線の交わり」は緑で、「小さな曖昧な集まりの部分」は黄か、あるいは薄桃色かもしれない。

それに対して、南部陽一郎氏の2004年に物理学賞の対象になった量子色力学論は、「本当に色がついているわけではないが、3色のどれか1色を量子が持つと考えることで、素粒子が結びつく理由が説明できる」というものです。(この2つの論から始まる展開は、次回に廻します。)

Wednesday, August 05, 2015

10月公演のために


 1) 大串孝二さん に  
                   
                                眞言密教の空海(A)

「眞言密教を称える空海は、われわれの身体の外にある自然空間を、素材として「地水火風空」を挙げ、「地水火風」の四大に、それまでの歴史的な宇宙としての意味の「空」とか、大乗仏教の中観派が称えた有るでもない、無いでもない哲学的な「空」とも違って、われわれの眼の前に広がる日常的な空間を「空」を追加し、五大とした。
そして、その中でも空海は「水」を一番大切に考えていたのです。「水鏡」という言葉がありますが、「水面」に太陽の「光」が当たると反射します。密教の教主である大日如来は、天空に輝く太陽のことで、その陽の光は智慧なのです。
宮坂宥勝氏によると空海の著作とされる『秘蔵記』に、次ぎのように記されているという。「絶対の智慧を、遍満している水そのものにたとえており、また、あるがままにあらゆるものを映し出す智慧は、その水がよく澄んでいて万物を映すのにたとえている。そして、平等性の智慧は、いっさいの事物が水のおもてに平面的にまったく平等に映し出されるものにたとえ、さらにそれぞれのものを差別相さながらにありのままに映し出しているのを、水がさまざまな事物の色彩や形をそのままに映し取っているのにたとえる。実践的な智慧のはたらきは、その水が万物を養って成長させているのにたとえているのである。」

大串さんの、こんど作品に反射鏡を使うアイデアは、思いがけなく有効な働きをすることになります。よくも考えついてくれた、と感心しております。
と言いますのは、この作品の第2幕で展開する場面は、第1場面の現実世界のポスとモダンの「自己組織化から始まり、その停滞時期の反復と内省の時を経て、反省と過去への回帰に至る時代の流れ」を、ホモンクルスの役の里見さんが突然の豪雨の来襲を機に、舞台を「大地」の軸を中心に逆転させ地下の真相世界を露に見せることになるのですが、この内サイドの場面は空海の眞言密教の“陀羅尼の世界”なのです。(舞台を逆転させる里見さんのホモンクルスの役は、第2場の五大の中では「水」の役にしました。それで雨を操ることが得意ということになります。なお、このホモンクルスと、柳田国男が語る遠野のザシキワラシとの差については後述します。)

空海は日本を代表する宗教家であると同時に、最高の思想家でもあるのです。日本を代表する思想家として西田幾太郎と鈴木大拙を挙げるのが普通
ですが、その思想の根底を為すものが禅宗と言っても「臨済宗」で、その彼らの思想の根底に“華厳宗”が与えている影響について触れる人は少ないです。 
法華経からの中国の天台、日本の道元に与えた影響、華厳宗から密教への繋がりなどに注意を注ぐ人も多く出て来ていますが、この際、もっと紀元前後のそもそもの大乗仏教の始まる頃から歴史を細密に辿って調べて行かないと、旧来の歴史学の慣習に添って、奈良・平安朝の宗教は鎌倉仏教よりも劣っていて呪術的なものに過ぎない、と決めて終わるだけなのです。
顯教と密教との差こそ大事なので、それには密教というものを、これまでと違った別の観点から捉えて行かなくてはいけない、と思っています。
 
大乗仏教と密教とはどう違うのか。大乗仏教が起こり始まる頃から、大乗仏教への最初の徴候として般若系統の経本と平行して、密教的な呪術系統の経本も出ていたのです。
そして、はっきりと密教と類別されものが発祥したのは4世紀頃と言われていますが、時代がさらに下った7、8世紀の、大日如来の教えを中心とするものを「金剛乗(こんごうじょう)」と呼んでおり、同時期にインドにおいて『大日教』『金剛頂経』の経典を元にして明確な密教の体系を創ったことを基準に、それ以前の密教を雑密(ぞうみつ)、それ以後の中国に伝わり、不空を経て恵果から日本の空海に伝わった密教を含めて純密(じゅんみつ)としたのです。

しかし、同じ純密の「密教」でも、空海の「眞言密教」は違う。それだけ空海の「眞言密教」は独自なものです。
でも、その前に「密教」の“密”とはどういう意味を持っているのでしょうか。西紀初めの頃の「密教」は呪文(「じゅもん)を称えて呪術的効果を願うものだったのですが、『大日教』『金剛頂経』の経典が出てから以後の純密教の“密”は、日常的な領域を越えた真相の世界の状態を“密”と解釈し、それを対象としたのです。そして空海は、そこに至る独自の道を“眞言”に求め、自らの「密教」を「眞言密教」と称したのです。
では、空海の“眞言”の“眞なる言葉”とは何か。それは「日常の言葉では達し得ない“密”なる世界に達するためには「からだでサインをつくり」“眞なる言葉”としての“陀羅尼(ダラニ)”を称える道を考えたのです。
人は「それが哲学か」と言うでしょう。そうではないのです。これは理解出来ない真実、真相を見い出すためのそれは空海の宗教的手段であって、その背後の空海の哲学は両マンダラの、これも理と智の構図の内側に隠されているのです。

その内側にどうしたら入って行けるかの解釈の紐が、今度の作品のテーマなのです。そうです。“紐”と“かたち”と“色”が今度の三大テーマなのですが、その内側に秘められているのが空海の哲学です。

インドにナガールジュナ(龍樹)という大乗仏教の「中論」を称え、「空」の問題を提出した人がいます。西暦2世紀頃に活動したと言われていますが、その龍壽の『大智度論』には、上の大乗仏教と密教とが同時に隣り合い、発祥して行った時期のことが書かれていますが、その両方に詳しかったナガールジュナの大乗仏教の龍樹こそ、一方で内側の教えを説いた密教の初代の祖である“龍猛”その人ではないか、と問わているのです。

東大の名誉教授で「仏教学会」の理事長でもある高崎直道氏は、禅宗の曹洞宗の方ですが、同じ禅宗でも臨済宗と違って仏教の歴史を釈迦の時代から大乗、禅宗、浄土宗、唯識論、仏性論から密教まで、全てを通じて詳細に眺める態度を崩さない方です。そのような思考観察によってしか、空海の偉大さを知ることが出来ないのかもしれません。
 以下、3度に亘って、空海とこの作品との関係について進めて行きたいと思っております。

10月公演のために


  2 )  池田 一さん に 


                       眞言密教の空海(B)

それでは、われわれの身体と外部の自然界を包む、この宇宙の存在の“いわれ”としての原理の“理”と、その中心的存在である太陽、即大日如来の“はたらき”としての現象の“智”の2つの特性、それは象徴的に密教の2つの胎臓マンダラと金剛界マンダラに仕込まれていて、それを解く道が空海の哲学そのものであるのですが、先ず、大日如来の“はたらき”としての現象の“智”、すなわち“智慧”から入ることに致しましょう。

大日如来の太陽の光が水の表面に反射するとき、どのような反応を示すのか。
今は亡きメイクアップ アーティストの第一人者シュウ ウエムラは、この世で一番大切なものは“水”だと言い、次ぎに“光”は「反射」だ、と断言しました。
そして、その反射という意味をもっとも効果的に、断層的に捉えることができるのは、光の水面への反射なのかもしれません。
空海は、空想的に描くその“水鏡”の光の反射の特性の上に、どのように彼の密教哲学のキー概念となる用語を選び出したのでしょうか。

まず、1)光の水への反射があり 
   2)その中に智慧を見た。
   3)その上に慈悲も感じとり、
   4)更に活力性も覚えたのです。

そして、ここからが空海の宗教家としての独自の解釈が始まるのですが、この「智慧」は法身の「智慧」ですので、法身は「智身」とも言われるのです。そして全ての人間は、その心の内側に「仏性」を秘めたまま自覚していませんが、仏の智を身内に持っていて、誰でもが「智身」となる可能性を持っている、というのです。そして空海の世界では、この「智慧」があらゆる生物、草木、山河、大地、諸物の上に充満していることになるのです。

それでは、大日如来の智慧というのは果たしてどういう性質のものかというと、空海の言葉に添って説明しますと、以下のようになります。

第1)法界体性智(ほっかいたいしょうち) ちょうどわれわれが、今問題にしている場面にそのまま相応するものです。それは全宇宙のことを“法界”という言葉で差しているのですが、その本性は“智”である、と言っているのです。
そして、そのことは前述した“地・水・火・風・空”の五つの粗大な物質要素と、“識”という一つの精神要素とが「六大」として“法界”という宇宙の本体をなしている。そしてこの六つの要素が、「法身」大日如来の象徴として全宇宙の生命的活動を行っているということになるのです。しかし、“識”へのその時の解釈によって、それに対する「五大」の要素との関係がどの様にも解釈できるので、それまで「現象学」的な“場”であったものが、「解釈学」的な“場”にもなり得るのです。

第2)大円鏡智(だいえんきょうち) 絶対の智慧の働きを“鏡”にたとえているのです。つまり“法身大日如来”の絶対なる智慧のはたらきによってあらゆるものが明かに顕われている、ということです。

第3)平等性智(びょうどうしょうち) “法身大日如来”の絶対の智慧によって、あらゆるものが平等に顕われていて、それを平等性の智慧といい、無知なるものの差別的、また部分的な視野とは区別されるのです。

第4)妙観察智(みょうかんさつち) その絶対なる智慧はあらゆるものをことごとく微細に観察することができる。

第5)成所作智(じょうしょさち) これは実践的な智慧であって、智慧のはたらきがそのまま行為として現れる。

空海は偉大なる宗教家であると同時に、以上のように類い希な哲学的な思考の保持者でもあり、また“書”や“文学”や仏像のあしらい方などにも美術的な才能が見い出されます。そしてさらに、漢字から日本独自の“ひらがな”への美的転換を行った当事者にも推測され、日本各地には庶民に対する仏教的な「慈悲」から行われた遺跡
が残されています。

私はシュウ ウエムラが創設した、高知県の室戸岬のホテルのすぐ傍にある、青年時の空海が修行したという場所、そこは海辺の近くにある2つ並んだ洞窟なのですが、そこに何度か足を運び、洞窟の中で波の音を聞きながら中国に渡る以前の空海のことを想像するのが好きでしたが、そこでは多分青年空海は、波の音を聞きながら「生命の海」を感じていたに違いないのです。

その事を考えると同時に、今、私は日本のランド アーティストの池田さんの作品を思い起さざるを得ないのです。
池田氏は1984年に始まった桧枝岐(ヒノエマタ)フェスティバルに参加したというより、このフェスティアルを先導した人とも言えるような、時代の先を見たアーティストでした。
彼が最初にこのフェスティバルで提出してくれた作品は、彼を中心とした男女の数人と1人の子供を含めて、公演の広場で行う「泥の朝食会」なるもので、衣服から顔まで全身、それにテーブルと椅子、皿までが全て泥まみれで朝食会を演じるパフォーマンスで、周りを囲んで観る人全員を驚かせたものですが、食事会が終わると全員、道具類を運んで、公演の下にある川に同時に跳びこんで、泥がじょじょに溶かれてゆくまでのパフォーマンスでしたが、これは今考えると、「ゴッホが描いた農夫の泥のついた靴のデッサン」を例に、ハイデッカーが説く「大地の美学」に通じるものを感じるのです。

次の年に池田氏が提出した作品は「水鏡」という作品でした。これは自然の風景のど真ん中に、木枠の十字の掘を作って水を溜め、その中に池田氏が大きな眼鏡をかけて顔だけ出してボイス パフォーマンスを演じることから始まるのですが、作品の意図するところは全くこのメールで空海について語って来た内容と驚くべきことに殆ど同じなのです。

だが、空海は前述した“智慧”の解説の後、宗教家としての空海の“慈悲”について解説すべきなのですが、今われわれは空海の哲学と芸術面だけを提示し、それを話題にしているので、空海にとっては大切な“慈悲”の問題には触れていませんが、各地に伝わる空海の伝説と共にある、見ようによっては「ランド アート」的に見える伝説の遺跡は、全て庶民に対する“慈悲”から作られたものです。

池田氏のこの「水鏡」はその後、美術の三大国際フェスティバルの一つであるブラジルのサンパウロ ビエンターレでヨーゼフ ボイスの後、メイン ゲストとして招待され絶賛を受けてからは、世界各地でランド アーティストして活躍していますが、私の観るところ、池田氏の作品は地球とか環境、社会問題に直接関わるテーマで動いていますので、いわゆる「ランド アート」の域を越えているのです。