Saturday, July 30, 2016

アルトー館公演



 村田/小野さんに
 9月公演の資料として



                    彫 刻  2  へルダー 登張正実訳




 光は目の中へ何を描くことができるのか。描かれるものは像である。暗い部屋の白壁に光が射すように、目の前にあるいっさいのものが光線をたばねた絵筆と化して網膜に射しこみ、その光の筆は目の前にあるものしか描けないから、それは平面であって、目に見える対象がどんなにちがったものであろうと、いっさいの対象の並列である。
 前後に並ぶものとか、がっしりした、かさばったものを、そのまま目に訴えることは、厚い壁布のうしろにかくされている恋人や、風車のとびらの内側で歌っている農夫を描けないのと同様に不可能なのである。

 私が眼前に見るひろびろとしたこの景色、これは、そのいっさいの現象とともに、画像、平面図以外の何ものであろうか。あの垂れさがった空、その空へ没する森、ひろがっている野、もっと近くの川、ふちどる岸、この像全体の描き方は------ 画像であり、図版であり、どこまでも並列する連続である。どの対象もそれ自体、ちょうど鏡が私自身を映すのとおなじぐらいに私の目に映る。それは図形である。鏡に映る私が図形以上のものだということは、べつな感覚によって認識するか、さまざまな観念から推測するほかはない。

 従って、視野のよみがえった盲人が、描かれた家、色のついた平面が彼の前につっ立っているとしか見なかった ということが、どうしてふしぎだと いうのか。ほかの方法で見いださなければ、われわれはみな、何ひとつもはや見えないのだ。赤児には、空とゆりかご、月と乳母が並んで見えるので、乳母にたいするのとおなじように月にむかって手をのばす。赤児にとっては、なにもかも一枚の坂の上の像だからだ。
 夜の暗闇のなかで、眠りからはっと目ざめたとき、判断力が集中するまでは、森と木、近いものと遠いものとがひとつのおなじ地(じ)の上にある。われわれが目ざめて、判断力を集中させるまでは、近くの巨人だったり、遠くの小人だったり、われわれを目がけて動いてくる幽霊だったりする。

 それから、われわれははじめて、習慣やほかの感覚、とくに触覚を通じて、見ることを学んだとおりの見方をする。われわれが触覚によって一度も立体であると認識したことのないような立体、あるいはたんにそれらしいというだけでは、その実物を判定できないような立体があれば、それはいつまでたってもわれわれには土星の環であり、木星のひも(木星の赤道と並行する縞)である。
 全身これ目という千眼入道でも、触覚がなければ、千の手がなければ、一生、プラトンのいう洞窟に閉じこめられて(壁に映る影だけを見ている囚人たちとおなじであって)、そういう現象として意外にただのひとつも立体的性質というものを本来理解できないであろう。

 そもそも立体のあらゆる性質というものは、その性質のわれわれの人体、われわれの触覚にたいするかかわりあいとしては、どういうものであろうか。光が通らないこと、堅さ、柔かさ、なめらかさ、形、丸さなどであろうか。私の心がいくらひとりで考えても、そういう性質の具体的に生き生きした概念をあたえられないと同様に、私の目は光を通じてそういう性質の具体的に生き生きした概念を私にあたえることはできない。
 
  鳥、馬、魚はそういう概念-------つかみ方をもたない。人間が持っているとすれば、それは人間が理性とならんで、握ったりさわったりする手同時に持っているからでだ。そして人間が手を持たない場合、ある立体について立体的感覚を通して納得する手段がない場合には、人間は推しはかり、解きあて、ゆめみ、うそをつくほかはない。そしてどこまでいっても何ひとつ本当にわからないのである。
 立体を立体としてただ見とれたり、ゆめみたりせず、つかまえ、持ち、所有すればするほど、感じ方が生き生きとしてくる。それが、ことば自体も示しているように、事物の概念、すなわち「物事をつかまえること」Begriffである。

 
 子供の遊び部屋にはいって、どんなに小さくとも経験の人間である子供が手や足を使って、つかんだり、握ったり、手にとったり、重さをはかったり、さわったり、寸法をはかったりしながら、たえず、立体、姿、大きさ、広がり、距離等々のむずかしい、最初の、そして必要な概念を忠実に確実に身につけようとしているのを見たまえ。
 ことばや説教ではそういう概念を子供に与えることができないが、こころみたり、確かめたりする経験がそれをあたえてくれる。ほんの数舜のあいだに、ただ見とれたり、ことばで説明するだけなら一万年かかってどうやらできる以上のことを習いおぼえ、それも、すべてをもっと生き生きと、もっとまちがいなく、もっと強く習いおぼえる。この場合、視覚と触覚とをたえず結びつけ、一方を他方によって調べ、意味をひろげ、差異をきわだたせ、中味を濃くすることによって-------- 子供は自分の最初の判断のを形づくる。操作や推論をしくじることによって真実に到達する。そして、そのことを考えたり、考えることを学んだりすることが手堅いものになればなるほど、おそらくじぶんの生活のもっともいりくんだ判断の上にすえると見られる根底がますますしっかりしたものになる、まことに、子供の遊戯部屋こそは、数学的=物理学的教授法の最初の博物館ともいうべきものだ。

 心を集中させて手さぐりする盲人が、立体的性質について、一条の太陽の光線とともに視線をすべらせて見ているだけの人間よりもはるかに完璧な概念を集めるということは、実証ずみの事実である。包みこまれた、暗い、だが限りなく熟練した彼の触覚と、自分の概念をおもむろに、ごまかしなく、確実に手に触れることによってわがものにしようとする方法とで物の形と生き生きとした現在感について、すべてのものがただ影のように逃げ失せるだけの人よりも、はるかに細かな判断を くだすことができよう。
 盲目でありながら、目の見える人間をしのぐ臘人形を作る人がいた。そして、私は、ある感覚の欠落が、ほかの感覚によって補足されなかったような例をいまだ聞いたことがない。視覚は触覚によって補われ、光による色彩の欠如は、奥行き深く刻みこまれた形姿によって補われる。従って次のことは本当である。
 「目でみる立体は平面にすぎないが、手で触れる平面は立体である」
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     『ヘルダー  ゲーテ』(世界の名著)中央公論社 より

Friday, July 29, 2016

アルトー館公演



 相良さんと 高橋さんへ

 9月公演の参考資料として

       
        華厳 の 観法

  1) 海印森羅常住(かいいんしんらじょうじゅう)の用 と
        海 印 三 昧(かいいんさんまい)

  体(たい)によって二用(にゆう)を起す。「一体が終わると二つの用(ゆう はたらき)が起ってくるというもので、その二つのはたらきとは、海印森羅常住用(かいいんしんらじょうじゅうゆう)と法界円朝自在用(ほっかいえんちょうじざいゆう)であるが、前者は『華厳経』の海印三昧(かいいんさんまい)にあたり、後者は華厳三昧にあたる。
 『華厳経』のなかでは、海印三昧を海のような境地のなかにしるしたもっとも深い三昧というように使っているが、『妄尽還源観(もうじんげんげんかん)の海印の解釈は独特で、海印とは眞如本覺(しんによほんがく)なりといい、『起信論』の影響を強く受けている。「妄尽心澄 万象斉現(もうじんしんちょうばんしょうせいげん)」、こういう状態だというのであ
る。

 妄念(もうねん)が全部つきると心が澄みわたる、そして心が澄みわたった境地のなかに万象(ばんしょう)、あらゆる事法界(じほっかい)のものが斉(ひとし)く、映現(えいげん)しているのだと説明した。それは時間的、空間的にすべての万象である。そうすると過去があらわれてくる、未来があらわれてくる。空間的には地球だけではなくて金星のすがたまで映ってくる。時間的には無限の過去から無限の未来がここにあらわれてくる。そういう状態を海印三昧というのである。

 これはたいへんなことだと思う。よほど情報キャッチ能力がないと、こういうことはできないであろう。この「妄尽心澄 万象斉現」という言葉は私の好きな言葉であるが、ちょうど碧潭(へきたん)、きれいに澄んだ水に満月が影を落としている、その影を見て月があるかと思うと、その月は小波(さざなみ)が立つと消え、また水が澄んでくると月が映ってくる。 そのピーッと澄んだときである。しかしその月は、月といっても仮現(かげん)にすぎず、手ですくおうとするとない。しかし確実に映ってくる、そういう状態をいうのである。
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 2) 法界円明自在(ほっかいえんみょうじざい)の用 と
       華厳三昧(けごんさんまい)
 
 つぎは、法界円明自在(ほっかいえんみょうじざい)の用(ゆう)であるが、これを華厳三昧と呼び、つぎのように説明している。「広修万行 称理成徳 普周法界 而証菩提」、これが華厳三昧の定義である。広(ひろ)く万行(まんぎょう)を修(しゅう)し、理(り)に称(かのう)て徳(とく)を成(じょう)じ、普(あまね)く法界に周(あまね)き、而(しか)して菩提(ぼだい)を証(しょう)す、このように華厳三昧を「妄尽還源観(もうじんげんげんかん」で説明しているが、たいへんな三昧だと思う。

 「広く万行」、あらゆる修行をおこなってと言ってもいいし、人世あらゆる生き方をして、ありとあらゆる経験をして、その結果「理に称(かな)う」、本然(ほんねん)の理性(りしょう)にかなって、その人の持っている本然の相(すがた)を完成するのだ。
 「徳」は本然の相のことである。そして「普く法界に周き」、この「法界」は事事無礙法界(じじむげほっかい)で、霊的存在。霊的世界に自分の心をあまねくゆきわたらせて、「菩提」は悟りのことであるから、そこに悟りを開いていくのである。

 四法界(しほっかい)でいえば「広修万行 称理成徳」は理事無礙法界(りじむげほっかい)の世界であり、「普周法界 而証菩提」は事事無礙の世界である。理事無礙から事事無礙に転じていくのが華厳三昧であると定義しているわけである。これを仏性と(ぶっしょう)と考えてもよい。各人が持っている仏性を花ひらかせて、そして本来持っている本然の相を完成するのだ。

 『華厳経』のことを法蔵は「称性ノ理教」と呼ぶことがある。それは理に称(かな)う、性に称(かな)うことで、仏性に称うということは、仏性が貫徹してくる、仏性がが性起(しょうき)してくる、仏性そのままになりきっていく、そういう真理を説いた教えであるという意味である。
 ここでは「称性」あるいは「称理」という言葉を考えてみるが、称性とか称理ということは理事無礙法界(りじむげほっかい)で理性というものが顕現(けんげん)してくる、それにかなっているということである。「称」は、称するとか称(とな)えるということではなく、「かなう」と読み、理に称’(かな)う。理が貫徹する、つまり理そのものであるという意味である。理そのものがそこへあらわれてきて、本然(ほんねん)の相(すがた)である徳(とく)を成(じょう)じてゆくのだ。松は松なりに、竹は竹なりに、その本来のすがたを成(じょう)じているすがた、それが理事無礙法界である。そしてさらにそれを超えていくと事事無礙法界(じじむげほっかい)の世界に入って、本当の悟りをひらくのだということである。

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      『華厳の思想』鎌田茂雄 講談社学芸文庫 より

 

Thursday, July 28, 2016

アルトー観公演



 山下さんへ

 9月公演の資料のために

       夢で見る 霊性界(りょうしょう)
                     ------- 明恵(みょうえ))の体験

 
 明恵の座禅の行法は「仏光三昧観(ぶっこうさんまいかん)」といわれる。明恵は承久二年の夏六月、『円覺(えんがく)経』「普眼(ふげん)章」によって座禅を修していたところ、その座禅中に好相(こうそう)を得たという。その好相というのは、自分の姿体が忽ち軽くなり、虚空(こくう)に上がり、四つの天上世界に登ることができ、弥勒(みろく)の楼閣(ろうかく)の前につくことができたが、そこで弥勒菩薩の姿はまだ見ることができなかった。

 しかし楼閣の前に一人の菩薩がいたが、それは普賢(ふげん)菩薩のようであった。その普賢菩薩が香水を自分の身体にかけてくれたので、身心歓喜をおぼえて三昧から出ることができたという。ついで夏ごろから百余日の間、仏光三昧を修していた明恵は、同年七月二十九日夜、座禅中に好相を得た。
 その好相とは、自分の前に白い円光があり、その形は白玉のようで長さは一尺ばかりであった。その円光からは白色の光明を放っていた。その時、お告げのことばがあり、これは「光明眞言(こうみょうしんごん)であると。明恵はここで光明眞言を得た。

 この光明眞言はわずかに二十三字からなる眞言であるが、たいへんな功徳(くどく)があり、明恵はこの眞言を土砂に加持(かじ)して、その土砂を死者の上にまくならば、極楽に往生することができると言った。あたかも『般若心経』の羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)にあたるものである。
 眞言宗の「在家念誦法則(ざいけねんじゅほうそく)(上田照遍撰)によれば、この光明眞言を二十一遍称えることを規定している。

 この光明眞言について、
  至信(ししん)に此の眞言を唱ふれば、速(すみやか)に煩悩の雲霧晴
  れて忽(たちま)ちに五智の光明顕現(けんげん)せん。若し現世に顕
  現を得ざれば順次の往生浄土は疑ひなし、此の眞言は五智の如来の眞
  言、又これ弥陀(みだ)如来の眞言にして其の威力の殊勝なること言語
     を以て述べ尽くし難く、
 とのべているほどである。明恵はこの光明眞言と仏光三昧観とを結合させたのであった。
 
 さらに明恵は八月七日の夜、座禅中に心身を統一して思いを凝らし、自分が有るが如き,無きが如き状態にある時、普賢、文殊、観音の三菩薩が手に瑠璃(るり)の杖を執っているすがたを夢見たという。三菩薩が杖の根本をにぎり、自分が杖の端を手にとったところ三菩薩は杖をひいた。すると自分も杖にひかれて天上の世界に上り、弥勒の楼閣(ろうかくに」たどりつくことができた。そのあいだ身心は清らかな悦びにみたされた。この瑠璃の杖は宝池(ほうち)のに上に立ち、その杖の頭には宝珠(ほうしゅ)があり、その宝珠より宝水が流れ、明恵の全身をうるおしたのであった。

 その時、明恵の顔もすがたも明鏡のように輝いた。忽(たちま)ち空中に声があり、諸仏は悉(ことごと)く汝の手の中に入り、汝は今、清浄となった、と言われた。
 明恵は夢に仏や菩薩のすがたを見たばかりでなく、読経中や座禅を行っている時にも菩薩の出現を見たのであった。仏光三昧観(ぶっこうさんまいかん)の観という字は、観想(かんそう)とか観念、止観(しかん)とかいうような仏教の述語となっている言葉であるが、観とは現実に見えないものを見ることである。霊性界の事物はわれわれ凡人の目には見えない。しかしひたすら念力(ねんりき)を集中し。自己を無にして、三昧に没頭する時、霊性界の事物がわれわれの前に開示される。その秘密なすがたをわれわれにちらりと見せてくれるのである。明恵のようにまず夢の中に見ること、ついで観想の中に実在させることなのである。明恵が観想を修すると。明恵の眼前に、すがたや形をもち、光明を放つ菩薩が必ず立っている。これは行の力というべきである。

 人間、一心に祈願すること、一心に求めることがどんなに重要なことか。観音さんに一心に祈願すれば、必ず観音さんは夢枕(ゆめまくら)に立つ。いな、立たねばならないのだ。優れた宗教家がすべて文殊(もんじゅ)菩薩や観音(かんのん)菩薩のすがたを夢の中に見たり、事実(じじつ)として目の前に見た経験があるものである。そんなことは異常な心理だとか、錯覚だと考える現代人の知性こそ大きな錯覚の上に成り立っていることを知るべきである。優れた宗教的天才はすべてこのような霊性的経験をもっている。これなくしては天地が崩るるとも動かざる信仰心は確立し得ないのである。
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        『般若心経講話』鎌田茂雄 講談社学芸文庫 より


Wednesday, July 27, 2016

アルトー館公演



9月公演のための関連資料

       彫 刻   ヘルダー  登張正美訳
           

 作品について語り、また芸術について哲学的考察を行うことが許されるとしたら、その哲学は少なくとも精密なものでなければならず、できることなら、最初の、もっとも簡単な概念に到達しなければならない。
 美術に関する哲学的考察がかってまだ流行していたとき、私は長いあいだ、美しい形と色とを、彫刻と絵画とに分けるべき本来の概念を探し求めた。そして、ーーーそれは見つからなかった。

 つねに絵画と彫刻はたがいに入りくみ。両方の美しさを創造し感得するひとつの感覚、すなわち、魂のもつひとつの器官のもとに捉えられている。従って。この美しさというものも完全にひとつの方法、同じ自然な描き方によって、ひとつの空間内に並行して作用し、ただ、一方が立体の形をとり、他方が平面の上で作用するという違いだけである。こういう考えに接して、私はほとんど理解するところがなかったと言わざるをえない。

 ひとつの感覚の領域内における二つの芸術ということになると、それは同時にまったく主観的には同じ美と眞の法則を有していなければならない。なぜ両者は同一の門をはいり、同一の門から出ていくことになり、そして、ほかでもない、ただひとつの感覚のためにのみ存在することになるからだ。従って、絵画は自分の望むだけの彫刻ができ、彫刻は自分の望むだけの絵画を描くことができなければならず、そして、それは美しくなければならない。両者はひとつの感覚に奉仕し、魂のただ一点を動かすのだから。

 だが、この事ぐらいまちがっているものはない。私は両者を追求して、一方のどんな特徴も、どんな作用も、どんなたったひとつの法則も、相違と制約なしに他方にあてはめることはないことに気がついた。
 まさに、一方の芸術の何ものかが独自なものであればあるほど、そして、いわばその芸術独特のものとして、自分のなかで大きな働きをしていればいるほど、それはうっかり他の芸術へ適用したり移したりしてはならないので、さもないととほうもない影響をひきおこすことを私は発見した。

 私はこういう点に関するひどい例がじっさいに行われているのを見いだしたが、二つの芸術と理論と哲学にはもっとはるかにひどい例があった。この理論と哲学はしばしば、芸術と学問についての無知なひとびとによって書かれたもので、何もかも奇妙にまぜあわせ、二つの芸術を姉妹、ないし親の違う姉妹とは見ず、おおむね二重のひとつのものと見なして、どんなぼろでも一方にあれば必ず、他方にも見いだされた。

 そこでいよいよ、かのみじめな批評、禁じられたり狭められたりするみすぼらしい芸術法則、普遍的美に関する甘辛い駄弁が生まれてくる。この普遍的美などというものは、その頃の大家なら吐き気を催すようなものだが、物知り顔の馬鹿者が金言のように
口にするために。門弟たちになると、このことばによって自分を台無しにしてしまうのである。
 ようやく私は自分の概念に到達したが、この概念は私には紛うかたなき眞実であり、われわれの感覚の本性、二つの芸術の本性にかない、数多くの珍しい経験に対応しているように見えるので、この概念は、本来の主観的境界石として、二つの芸術と、そのもろもろの印象の基準とをきわめておだやかな方法で分けるのである。
 私はどちらの芸術にも何が固有で、何が無縁なのか、何ができ、何が欠けているか、何が夢で、何が真実なのか、を見分ける一点をかちえた。

 美の本質をそこにおいておそるおそる遠くから予感するある感覚が私に生じてくるように思われた。そこにおいてとは、-------いや、私はあまりにも先を急ぎすぎ、またあまりにも多くをしゃべりすぎる。ここでは、美の芸術相互の割りふりに関する私の考えの大筋にとどめる。
 われわれは、自分のそとにある対称を「横に並んでいるもの」nebeneinanderとして捉える感覚、「時間的に前後するもの」nacheinanderとして捉える感覚、「内部的にはいりこむもの」ineunanderとして捉える感覚を持っている。すなわち、視覚と聴覚と触覚である。
 
 併存する対称は平面を生む。もっとも純粋単純な前後対象は音である。相互の中と横と寄り集まりとが一挙に生じた対象が立体ないし形である。従ってわれわれのなかには、平面と音と形にたいするひとつの感覚があって、その場合、美ということが問題になるときは、それぞれ平面と音と立体のように区別されていなければならない美の三種類にたいする三つの感覚がある。
 芸術がそれぞれこの三種類のどれかで制作するのであれば、われわれはまたその領域を外側と内側から識別する。
 外側から見れば平面、音、立体であり、内側から見れば視覚、聴覚、触覚である。

 これがつぎに芸術の境界となるので、それを決めるのは本性であって、申しあわせた取り決めではない。従ってどんな取りきめでもこの境界を変更することはできないので、さもないとこの自然=本性が復讐する。
 絵を描こうとする音楽、音をひびかせようとする絵画、色をつけようとする彫刻、石に刻もうとする絵画というものは、何の効果もない、あるいは虚偽の効果を持った変種ばかりである。

 そしてこの三つは、平面と音と立体という関係であり、あるいは広大な創造作用がいっさいを捉え、いっさいを包みこむときの三つの最大の媒介者、空間と時間と力のような関係である。
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    世界の名著 『ヘルダー ゲーテ』中央公論社 より


Tuesday, July 26, 2016

アルトー館公演



 9月公演のための 参考資料として

  「般若心経」
       
         心無 罣礙(及川註 心のわだかまり)
                           ー 空性の実践 ー

 般若はらみつは「五蘊皆空』と観ずる智慧であることを述べてきた。そして、「舎利子よ」にはじまり「無智亦無得(むちやくむとく)」に至る一段(文章ごとに切れば三つの部分に分かれる)は、この「五蘊皆空」を展開して、その意味と具体的内容すなわち諸法の空相(くうそう)を説いているので、当然これがまた般若はらみつによって知られることがらに他ならない。
 
 では一体ひとは何故。空性(くうしょう)を感じなければならないのか。また、空性を感じると、それは修行者にどんな効果をもたらすのか。これが、次の一段の明かすところである。
 これは空性のはたらき(空用)と言うべきであるが、これまた般若はらみつの効用と言ってもよい。

 さて、般若はらみつの効用として、ここには二つのことが挙げられている。第一は涅槃を究見すること<及川註 涅槃を達成すること>、第二は「阿耨多羅三藐三菩提を得ることである。< 及川註 涅槃に入って後に、あのくたら(無上で)さんみゃく(正しい)さんぼだい(悟りを得ること)>

 涅槃は「涅槃寂静」という法印の説明中でも述べたように、心の平安・寂静の境地・煩悩の焔のふき消された状態ということで、四諦の中の苦滅諦と同じであり、また、十二因縁で「無明尽」によって最終的には「老死尽」に至る、その滅尽の最後の果を言う。それはまた、「煩悩は尽きた。梵行は確立したなすべきことはなしおえた(所作已弁 しょさいべん)。もはや二度と輪廻しない(不受後宥 ふじゅごう)」と自覚することだとも教えられている。

 このように涅槃を究明することは、阿羅漢となることとも同じであるが、菩薩もまた同じ涅槃に至るし、諸仏も同様である。涅槃は仏・菩薩・声聞・縁覺を問わず同一味であるというのも、仏教に共通する理解である。
 これに対し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)というのは仏に限られ、「無上正統覺」の意味の梵語で、それは諸種のさとり(菩提)のうち、仏のみの得られた悟りに対する名である。

 菩薩はこの諸仏と同じ悟りを目差して修行しているものであるから(発心=発菩提心=無上正等覺にむけて心を発起すること)、菩薩たるものにとって阿耨多羅三藐三菩提は究極の目標である。
 現に発心し修行を積んだ菩薩たちだけではない。いかなる衆生でも、発心し修行する限りは菩薩であり、そして仏と同じ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は究極の目標である。

  現に発心し修行を積んだ菩薩たちだけではない。いかなる衆生でも、発心し修行する限りは菩薩であり、そして仏と同じ阿耨多羅三藐三菩提 (あのくたらさんみゃくさんぼだい)得ることが最終的には可能である。
 ただし、そのためには般若はらみつを身につけ、五蘊皆空と空性の理を会得、体得しなければならない。この究極的効用の故に、般若はらみつには「深い」とか「甚深」という形容がつくのである、甚深とは思慮の及ばないという意味である。


 ところで、経文には少し矛盾することが書いてある。すなわち、前段のおわりに
 「も無く、も無し」とあり、つづけて、
 「無所得の故に、菩提薩堆は般若波羅密多に、依るが故に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)をたまう」となっている。

 智も徳もないのに、般若はらみつに依って、さとりを得るというのである。  言ってみれば、智のないのが智であり、得のないのが徳である、というわけである。こういう表現は「般若経」がしばしば用いるもので、たとえば、「金剛般若経」にも、
「須菩提よ、私は般若波羅密、即ちこれ般若波羅密に非ずと説く」(梵本では「だから般若波羅密なのだ)と第三句をつける)とあり、さらに
「須菩提よ、実に法として如来の阿しゅく多羅三まい三菩提を得ること、有ることなし」
 それ故、釈迦牟尼仏は燃灯仏によって、将来仏に成ると授記されたのだ、とも教えている。
 ここでいわんとするところも、それと同じである。そのような般若はらみつが無くして、しかも有るということが空性のはたらきと言うべきであって、それを表わすのが「心無けいげい」の四文字である。

 観自在菩薩が、五蘊皆空と観じた。つまり観自在菩薩には般若の知恵がある。それは、どうしてわかるか。それは、その心が何ものにも邪魔だてされず、自由自在にはたらくことで知られる。自由自在のはたらきは『観音経』に言うように「仏身を以て得度すべき者には即ち仏身を現じ」ないし、「執金剛神を以て度すべき者には即ち執金剛神を現じ」て衆生を度することである。
 それと同様にすべての菩薩は、いや、人は誰でも 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に向けて発心し修行したならば、般若はらみつに依って空性を感じた時、みな「心無けいげい」となり「心得自在」である。

 罣礙と訳されたことばは、覆うもの、さえぎるものである。それは一般に煩悩を意味するが、ここで「罣礙なし」というのは単に煩悩が無いというだけでなく、もっと積極的に真実を見とおすはたらきをいう。
 真実を見とおすとは経文に「転倒を遠離する」と言うもので、すべての転倒した見方を離れ、真実を見る者には恐れはない。恐れなき者は勇猛に利他行に精進する。それが菩薩摩訶薩(大士)といわれる所以である。
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                         高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より

Monday, July 25, 2016

アルトー館公演



9月公演のための
「般若心経」の解釈
 
        空 と 空性    

 梵語(サンスクリット語)は、ヨーロッパで言うとラテン語に当たるインドの古典語で、文法体系が極めてカッチリしている。一つの語根にいろいろの接尾辞や語尾変化を加えて定型動詞(人称、時称等を具えた型)も作れば、例の接尾辞を加えて名詞形(名詞や形容詞)も作る。さらにその名詞形に接尾辞をつけて、新しい形容詞を作ったり、抽象名詞を作ったりする。「般若心教」の梵語は、たまに正規の文法からはずれた形も見られるが、だいたいは古典梵語の知識で読めるし、文法にしたがって忠実に解釈しなければならない。

 他方、中国語、漢文というのは、その性格がおよそ梵語とは対蹠(せき)的で、全く語尾変化というものがなく、抽象名詞をつくる接尾辞などについても、あまり頓着しない。そこで、漢訳仏典を読むとき、多少の注意が必要となる。
 こんなことを書き出したのは他でもない。「空」という漢訳語には二種類の原語があるからである。まず、例の「五蘊皆空」の場合は、梵語から直訳すると、
 それら五蘊はその固有の性質(自性)が空であると観察した。
となり、「空」は何かの欠けている状態を示す形容詞である。
 
 それに対し、次の「色不異空」などの場合は、同じく梵語によると、
 ここで、舎利子よ、いろやかたち(色)は、(いろやかたちが本性として)空であることに他ならず、空であることはいろやかたちに他ならない。いろやかたちとは別に、空なること があるのでもなく、空なることとは別に、いろやかたちがあるのでもない。いろやかたちなるもの、それは空なることであり、空なること、それはいろやかたちなるものである。 となる。

 この場合の「空」は「空なること」で、シューニャ(空なる)の後に「ター」という抽象名詞を作る語尾が付いている(シューニャター)。この意味を漢語で強いて表すと「空性」となる。
 さて、空なること、空性は、いろやかたち(色)をはじめとして、受・想・行・識というすべての法(一切法=五蘊)が固有の性質を欠いていることを意味する。そして、それは釈尊の悟られた真理の内容にほかならない。
 悟られた真理は、『阿含教』では「縁起」といわれ、あるいは、『諸行無常」とか「諸法無我」あるいは「一切皆空」などと表明されているが、それらと同じ内容を、この「空性」ということばが示すものと解せられる。

 換言すれば、縁起したものであり、無常であり苦であり、無我であるところの一切法が、『般若経』では、「空である」と説かれ、そのことが「空性」の一語で表明されることになったのである。
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          高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より
            

Sunday, July 24, 2016

アルトー館公演




 華厳経について

      ニヒリズム と 華厳経


 中国の老荘思想のなかには、一切のものを否定しようとする虚無(きょむ)主義的な考え方があるが、仏教のなかでも一切を否定する「空(くう)」の教えがニシリズム的な傾向を含んでいる。
 法蔵(ほうぞう)が説いた頓教(とんぎょう)は、一切の言葉や概念を否定しようとする教えであり、ある意味では人間のふつうの生き方や妄念(もうねん)を徹底的に否定する。

 一つのものの奥底に徹する生き方であるが、しかし、華厳の立場ではこの考え方を克服しなければならない。頓教の考え方のように妄想がなくなればいいではないかと思うが、これを人世観として徹底させると超ニヒリズムになる。一切なにもないというのであるから、人間のいとなみ、生のいとなみがまったく消えていく。それを法蔵は、それだけではだめであるというのである。

 これだけでいくならば、これはなお浅いのだ、森羅万象(しんらばんしょう)そのものが毘盧遮那仏(いるしゃなぶつ)の光明であり、存在しているあらゆるものが、仏の相(すがた)を顕現(けんげん)させているということを知らないではないか、と主張した。
 ここでニヒリズムから実存主義への転換が起る。頓教というのはニヒリズムで、一切を否定してしまって何もない、物になりきっていくわけである。そこからは「大悲(だいひ)」が出てこない。大悲が動いてこない。大悲が動くためには、ありとあらゆる存在物が仏の光明に包まれていると感得(かんとく)しないといけない。

 だから第四段階の頓教(とんぎょう)の好きな人は第四段階でもいい、あえて、第五段階の円教(えううぎょう=華厳教の立場)に進む理由はない。かく言う私も第四段階のほうが好きなのだが、法蔵は「華厳経」の立場、すなわち円教(えんきょう)の世界が本当だという。
 なぜ「華厳経」の立場が本当かというと、仏(ほとけ)の光明(こうみょう)にあらゆる存在しているものが包まれてくると、やっと他人も他の物もここに生きてくる。そして
ここに大悲による仏国土(ぶっこくど)が生まれるわけである。

 第四の頓教の立場では仏国土はない。これはどこまでも覚(さ)めきった世界である。それが仏国土だというならそれでもいいが、しかし最後には、こんな骸骨(がいこつ)の上にかかわってもしようがないといって、鳥も逃げてしまい、狼も虎もあきれて、これは石ではないかと逃げてしまうようになったら仏国土にはならない。やはりその人が坐っているところに、なんとなく人が慕って集ってこないといけない、草花も喜んで咲いていてくれないといけない。

 そうなると、どうしても悲(ひ)が動いていかないといけない。悲が動くということは、ありとあらゆる存在のものが、仏の光明を放っていなければいけないのである。山は山なりに山の光明を放ち、川は川なりに川の光明を放っている。
 そうすると、その存在物はみな生きてくる。お互いのものがお互いに生命を放ち合っていけば、はじめてここに悲が動いていく。そして仏国土が現成(げんじょう)していく。
 それを法蔵は言いたいわけで、仏教としては円教までいかなければいけない。円教の段階にくることによって、ニヒリズムを超克して実存の歓喜(かんき)に向かわないといけない。宗教的な歓喜に向かわないといけないのである。
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                 『華厳の思想』鎌田茂雄 講談社学芸文庫 より
  


アルトー館公演


 密教について

         神 秘 主 義
 
 密教の特徴の五つのうち、どれを第一番目に挙げるべきかということは問題ですけれども、何をおいてもやはり挙げておかなければいけないのは、神秘主義であろうかと思います。
 神秘主義であるということは、密教が、理論ではなくて宗教体験であるということです。それは、いわゆる大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)の一体、これらが本質的に一つであるということを直観する。マクロコスモスである宇宙、あるいは大自然と、ミクロコスモスである自分とが、本来的に一つであるということを宗教体験を通じて身につけることです。

 こういった考え方は、インドの思想、あるいはインドの宗教には共通して存在しているわけであります。バラモン教のほうでも、梵我一如’(ぼんがいちぎょ)といいます。つまり、梵というマクロコスモスと我というミクロコスモスが本来的に一つであることを知ることが大切だとされます。
 あるいはなにもバラモン教だけではなくて、仏教のなかにもやはりこの考え方があり、現実世界はそのまま理想世界であるという。あるいは、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という言葉にもこのことはあらわされています。たとえば、仏教では、法という言葉があります。この法という言葉はいろいろな意味を持っていますが、その一つに真理という意味がありますね。仏法というようなときの真理、あるいは仏の教えという意味があります。
 この真理という意味は、絶対の世界をあらわすわけです。仏法というようなときの法というのは、絶対の世界をあらわす場合と、それからもう一つは、仏教思想の特色をあらわす言葉として、諸法無我(しょほうむが)の場合があります。
 諸法無我という場合の法は、この絶対の世界の法ではありません。この場合の法は、現実世界という意味なんですね。現実世界に存在するものはそのまま固定的な実体すなわち
我がないんだと。だから、この法という意味には、絶対という意味と現実という二つの意味がある。このように西洋的な考え方では相反する二つの意味が同じ言葉になってあらわれているわけです。

 これは一例でございますけれども、仏教のなかでも、絶対がそのまま現象であるという考え方は伝統的にあるわけです。なにも密教になってから初めて出てきた考え方ではなくて、現象世界がそのまま絶対の世界であるということは、仏教の法という言葉そのものが、相反する両面を含んだ言葉であることからもわかります。
 こういうように、梵我一如’とか、法というものの二義性を考えましても、インド人の考え方のなかには、やっばり大宇宙と小宇宙は本質的に一つなんだという考え方があるのですね。
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 『密教とはなにか ー宇宙と人間ー』松長有慶 中公文庫 より

Friday, July 22, 2016

アルトー館公演


9月公演のために



    眞気 と 邪気 について  アルトー館講座

    ^^^^^  気の集め方として、これまで色と声と形による方法にふれましたが、 今日はここに、真気、邪気についての簡単な定義を記します。



1 虚とは、眞気の不足状態を意味する
2 実とは、邪気が停滞し充満している状態を意味する
3 眞気とは、新しい生命力ある」エネルギーである
4 邪気とは、使い古されて汚れたエネルギーである
5 眞気と邪気は、気という実態の2つのバリエーションである
6 眞気とは、自然界にある浄化されたエネルギーである
7 眞気を消費しすぎると、不足して、虚となる
8 邪気が停滞して体外に排出されないと、実となる
9 邪気が停滞するのは、眞気が不足するからである
10 実の状態とは、眞気を大量に消費し、それが邪気に変化し、さらにそれが体外に排出されずに、その部位に滞った状態を意味する
11 「邪気盛ん」とは、「邪と眞気と邪気と実症という4つのモメントが絡み合った状態」である
  
  ー『眞気の入れ方と邪気の抜き方』本宮輝薫 星雲社より



 <イメージの重要性>
  気を起すためには、イメージが重要なことを知りましたが、原始人は神話をつくる際、まず大自然を前にしてそれが自分に語りかける動きのイメージを元にして神話をつくる、ということ。

 <呼吸と皮膚感覺の重要性>
  ヘルダーが彫刻と皮膚感覚について述べており、それが普通の皮膚感覚でないのに驚いていたのですが、現代の開発された生理学では、ヘルダーが感じていた皮膚感覚の可能性を医学的に証明しています。

 呼吸法と皮膚の使い方によって、われわれは華厳経が示唆する霊性の域を知ることができるでしょう

アルトー館公演


   
 9月公演のために 

        空 の 意味
 
 『般若経』の基本的教理というべき「五蘊皆空」ひいては「一切法が空』という主張が、実はアビダルマ哲学の「一切法有り」という学説への反論として成立したものであるということを前説で申し上げた。
 このように「有り」における「空」だからそれは「無い」というのと同じである。と考えられやすい。たしかに「心経」にも「無色・ないし、無意識界」と、一切法が無いということを述べている。ただし、それには「是の故に、空の中においては」という限定(条件)がついているので、そのことをあとで考えてみなければならないのであるが、まず、この「一切法は空」ということは、法はどんな点からいっても無い(存在しない)と言っているわけではない、ということを銘記しておいていただきたい。
 
 では、「空」とはどんな意味であるか。漢字の「空(くう)」は、日本語で、そら・から・むなし、などと読む。仏典のいう「空」もことばとしてはその何れにも通じる意味があるが、基本的にいえば、「から」というのが最も近い。

 仏典の「空」はこの場合、梵語で「シューニャ」という形容詞の翻訳である。(「空」=大空(おおぞら)は一般に「虚空(こくう)」と訳され原語も別である。しかし大空も、シューニャであるといえる)この「シューニヤ「というのは、たとえば風船の中味をふくらませた状態とか、武の茎など、中のうつろな状態をさして使われる。現代の科学知識でいえば、そこには空気は入っているといわなければならないが、古代人の考えでは、そして現代人の常識的なものいい方でも、そこは「空っぽ」である。つまり「シューニャ」とは中味のないこと、素質のないこと(たとえば木の幹ならば輪切りにしても、年輪を刻みこんだ木のイッパイつまったいるが、それと比べれば竹は中味が空である)をあらわす。その場合、風船は中味は空だが風船としてはそこにある。風船の存在まで否定されるわけではない。
 
 身近な例でいうと、「財布が空だ」という場合、財布はお金の入れ物でいくら財布だけあっても、お金がそこに入っていなければ無用のものである。その場合には、中味こそ大事なのであって、「空」には、あるべきもの、値うちのあるものがそこにない、つまり、無価値だという意味もある。「あいつは頭が空っぽだ」という場合などは、かなりこれに近い意味である。

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「法は空」であると経典が説くとき、その意味は「法には自性(じしょう)が無い」という意味であると教えられる。前に述べたように「法とは自性を保持するもの」というのが有部の与えた定義であったが、『般若経』などは、それを「法には自性がない。」というのだから、両者は真っ向から対立することになるのである。
 では「自性」とは何であるか。その原語は「自己存在」とも「固有の状態」あるいは「性質」とも訳せることばであるが、自己存在というとそれ自体で多の条件に左右されず発生の原因もなく、はじめから独立自存しているものと解釈できる。そんなものがいったいあるかしらと思われるであろうが、古代インド人の考えでは梵(ブラフマン)などは天地創造の主であり、天地のはじめから始終一貫して不変な存在であると考えられている。
 
 我(アートマン)も同様である。しかし、仏教にとっててはそういうものはない。すべては因縁によってできたのであるから、不安な自己存在はない。「般若経」では、このことをしばしば、「諸法は因縁所生」(縁起したもの)であるから、無自性である。無自性だから空である」と表現している。
 これに対し、有部でいう「自性」は「固有の性質」の意味である。たとえば、青という法(青いもの)は何時でも青い。それはたとい、一瞬ごちに滅したからといって変わることはない。
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                                      高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より

アルトー館公演


9月公演のために


   
     シェイクスピア   ヘルダー  
                    登張正実訳


 シェイクスピアは自分の前にも、また周囲にも。ギリシャ劇を形成したような国家風俗、行動、傾向、および歴史伝承の単純な原型を少しも見いださなかった。
 従って、形而上学的第一の真理によれば、無は無を生むだけだというのだから、哲学者たちに身をゆだねていたのでは、この世にもはやギリシャ劇が生じなかったばかりではなく、おまけに無しかないというのであれば、およそ戯曲そのものが全然生まれなかったであろうし、生まれる可能性も無かったであろう。
 
 ところが天才は周知のごとく哲学以上のものであり、創造者は分析者とは別ものであるゆえに、ここにひとりの人間が神才を賦与されて、まったく正反対の素材から、まったく違った作業によって、「恐怖と同情」という同じ働きを惹きおこした。
 しかもこの両者を、かって第一の素材と作業がほとんど生みだしえなかったほ どに惹きおこしたのだ。これこそ自分の冒険にみごとに成功した神の子だ。ほかならぬこの新しい、最初の、まったくちがった要素が彼の天賦の根源力を示している。

 シェクスピアは目の前に合唱隊は見いださなかったが、国家劇と人形芝居ならたぶ見いだしたであろう---------たぶん。だから彼は、この国家劇と人形芝居というじつにつまらぬ粘土から、今日われわれの前にあって生きているあの素晴らしいものを作ったのだ。
 彼の見いだしたのは、単純な民族と祖国の性格などではなく、階級、生活様式、考え方、地方人と方言とが絡みあった複雑なものであった--------前者をいくら求めてもがき苦しんでもむだなことであったろう。彼はそれゆえ、さまざまな階級と人間を、もろもろの地方民とことば使いを、王と道化たち、道化たちと王とを試作して、すばらしい全体に作りあげた。

 彼はギリシャに見るようなできごとや説話や筋の単純な精神を見いださなかった。彼ができごとを見たままに受けとり、創造精神をもって、じつに種々様々な材料を驚嘆すべき全体に組み立てた。これをわれわれは、ギリシャの意味で筋(ハンドルック 行為)と言わなくとも、中世の意味における所作(アクション)、あるいは近代後でいう事件(エベヌマン)、大きなできごとと呼びたい。

 ----  おお、アリストテレスよ、きみがいまこの地上にあらわれたなら、きみはどれほどかこのあらたなソポクレスをホメロス化することだろう。そうして、現在シェイクスピアの同国人であるホームとハード、ポープとジョンソンがまだものしていないシェイクスピアについての独自な理論を考え出すであろう。アリストテレスよ、きみの説く悲劇の要素、筋、性格、思想、表現、舞台、のどれからも、ちょうど三角形の底辺の二点から、目的点、完全性という上の一点で総合するように、どんな線でも引くことができるということをさぞ喜ぶだろう。

 きみはソポクレスにむかって言うだろう、おまえはこの祭壇の聖像を描け、と。それから北方の詩人よ、おまえはこの神殿のいっさいの側面と壁面とを描いて不滅の壁面とせよ、と。
 私を解説者ならびに吟誦詩人としてつづけさせてほしい。なぜなら私は、このギリシャ人のソポクレスにたいしてよりは、シェイクスピアのほうに近いのだから。このギリシャ人において筋といういうひとつのことが支配しているとすれば、シェイクスピアは、あるできごと、ある事件の全体をめざして創作している。

 前者においてもろもろの性格から成るひとつの調子が支配しているとすれば、後者においては、あらゆる性格と階級と生活様式が、彼の演奏の主たる調べを織りなすだけの力と必要があるかぎり、あますところなく働いている。
 前者のなかに、ひとつの歌う美しい言語が高い空のなかににひびくように鳴り響いているとすれば、後者はあらゆる年齢と人間と人間の種類との言語を語り、自然の告げるあらゆることばの通訳者である------そしてちがった道をたどりながら、両者ともに同一の神の寵児ではないか。
 
 前者がギリシャ人を前に据えて、教え、感動させ、教育するとすれば、シェクスオイアが教え、感動させ、教育するのは北方の人間たちだ。彼を読むたびに、私には劇場も俳優も書割も消え失せてしまう。迫りくるのはただ、さまざまな事件の、摂理の、世界の書の、時代の嵐のなかを吹きまくる一頁一頁だけなのだ--------いろんな国民、階級、魂の個々の鋳型だけなのだ。

 それらはすべて、きわめて多種多様な、およそ別々に動く機械であり、すべて、------われわれは世界創造者の手中にあるということを--------自覚することなく盲目的に、ひとつの演劇像の全体、大きさを持ち、詩人だけの見渡せるひとつの事件の全体を構成する道具なのだ。北方人のなかで、そしてこの時代において、これ以上に偉大な詩人をだれが思いうかべることができよう。
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                  (中央公論社「世界の名著」より)

アルトー館公演




 9月公演「庭」の参考資料として

  『般若心経』について
                

                    観自在菩薩 と 舎利子          

      ー 経の舞台と主役 ー

 いよいよこれから経の本文に入る。経文はに日用読誦聖典などをそばに用意しておいて、参照していただきたい。お経の講釈は経文の順序を追って一語一語果たして行くのが通例であるが、本書では経文の全体を眺めわたしながら解説していきたい。
 本説はこの経典の舞台に登場する二人の人物について考えてみよう。
 二人の人物とは、観自在菩薩すなわち観音さんと、舎利子である。舎利子は舎利弗(ほつ)ともよばれる。仏弟子中の筆頭で智恵第一といわれている。この二人を二人とよぶのは、とくに観音さんの場合には不当かも知れないが、ともあれ、わたくしたちの知る限りでは、一応人間の姿をしておられるので、二人とよばせていただく。

 さて、二人のうち、観音さんはまずお経の冒頭で、
 「観自在菩薩、深(じん)般若波羅密多を行ぜし時、五蘊は皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまえり」と見える。これがその名の出る唯一の機会であり、そのなさったことのすべてであるように見える。
 次に舍利弗であるが、これは右に続く文中で、
 (一)「舎利子よ、色は空に異ならずーーー」
 (二)「舎利子よ、是の諸法は空相にしてーーー」
の二回、よびかけの相手として現れる。つまり舎利弗はこのお経では、説法の聴き手、聴聞者として登場していることがわかる。
 
 ところで、このお経を説いているのは誰なのか。前にも述べたように、お経は「仏説」であり、この経も「仏説摩訶般若」云々とよばれることがあるから、仏さんが舎利弗にむかって法を説いておられるのだと考えられるであろう。ところが、どうもその状況はちょっと違うのである。
 右の「舎利子よ」を仏さんのお言葉とすると、冒頭にあった「観自在菩薩」云々は一体何を意味し、何のためにあるのか。何故、観音さんがそこに登場しなければならないのか。

 まあ試みに芝居の舞台を想像してみよう。舞台中央やや右手に仏陀が坐り、左手には大勢の仏弟子たち
が仏陀の方を向いて居ならんで説法を聴いている。その先頭にいるのが舎利子で、仏陀はとくにこの智恵のすぐれた弟子に向って、深遠な般若はらみつの教えを説いておられる。
 その時、観音さんは一体どこにおられるのか。舞台には現れないで、ただ仏の説法の中でだけ、その行跡が物語られるのであろうか。それならば、なぜ観音さんの話がそこに出たのであろうか。
 あるいは、観音さんもやはり舞台上にいるかも知れない。たとえば、右手のはじの方でひとり禅定に入り、深遠な般若はらみつを行じ、諸法の空なることを照見しておられる。

 それを見、その方向を指し示しながら、世尊が舍利子に向かい、「あの観音さんのようにお前も照見しなければいけないよ」と諭しておられるのかも知れない。
 実はこの二つともちがうのである。これは「心経」二百六十二文字だけではわからないのであるが、前(第二節)に述べた「広本」を見るとはっきりする。広本は通常の経典のように、「如是我聞」ではじまり「歓喜奉行(かんぎぶぎょう)」で終っている。つまり、経典として完全な体裁を整えている。それを見ると、この経の舞台装置がよくわかるのである。その書き出しは次ぎのように」なっている。

 このようにわたしは聞いている。
 ある時、世尊は大勢の仏弟子や菩薩たちとともに王舍城の霊鷲山(りょうじゅさん)におられた。
 その時世尊は「深淵なさとり」と名づけられる三昧に入られた
 そのときの偉大な菩薩である観自在は、深遠な般若はらみつを行じつつあったが、次のように感得した。
 --------- 五つの諸要素のあつまり(五蘊ーー<及川註 色・受・想・行・識>)がある。それらはみな空で
 ある------ と。
   そのとき長老舎利子は、仏の威信力を承けて、観自在ぼさつに次ぎのように言った。
 「もし誰か善男子が深遠な般若はらみつを行じたいと願ったならば、どのように学習すべきでしょうか」
   かく問われて聖なる観自在ぼさつは長老舎利子に次のように説いた
 「舎利子よ、ーーー」
 以下、経の主要部分は大体現行の『心経』と同じで、最後は次のようになっている。
 「ぎゃーてい;ぎゃーていーーーーぼーじーそわか。---------------
  
  舎利子よ、深遠な般若はらみつを行ずる時、菩薩はこのように学ぶべきである。
 そのとき世尊は三昧から立ち上がって、観自在ぼさつに賛意を表された。
 「そのとおり、そのとうり。善男子よ、深淵なはらみつを行ずるには、そのように学ばなければならない。      
 そなたの説いたとおり、諸仏たちも喜んで承認されるであろう」
 
 このように世尊は仰せられた。そこで舎利子や観自在菩薩をはじめとする、その会座に居合わせたすべての
 ものたち、および神々、人間、アスラ、ガンダルヴァたちを含むすべての世間のものどもは、世尊のおこと
 ばに歓喜したのであった。
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            高崎直道『般若心経の話』曹洞宗宗務庁 より
  


Thursday, July 21, 2016

アルトー館公演



9月公演「庭」の参考資料として


  『般若経』と『般若心経』


  前説で、『般若経』とは『智慧の心髄』という意味で、仏のさとりの心髄を説いているお経であると述べたが、本説は少し別の角度から、その意味を考えてみることにしよう。
 『般若心経』の『心』というのはサンスクリット語(梵語)のブリダヤの訳で、心臓。ハートの意味である。心臓は身体の中心で、命の源であるから、転じて、ものごとの核心、心髄、精髄、エッセンスの意に用いられる。
 『般若心経』が般若の核心を説いたお経であるということは、般若のことを詳しくさらに説いた経典もあることを示している。それが、あの大般若会で転読される『大般若経』六百巻である。
 六百巻という膨大な量の経典が、その中味をせんじつめれば、二百六十二文字の心経になる。その意味では、『般若心経』は『大般若経』の内容を要約して、その核心となるところ、さわりの部分だけを説いた経典であると説明することができよう。

 ところで、漢訳の大蔵経をみると、この大小両極端の般若経のほかにも、いろいろな種類の般若経がある。たとえば、曹洞宗でよく読頌する『金剛経』もその一つで、詳しくは『金剛般若波羅密経』とよぶ。『大般若経』や『般若心経』は、唐の玄奘三蔵が訳したものであるが、『金剛経』は鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)すなわち羅什三蔵の訳したものを用いている。
 羅什三蔵の訳したものでは、そのほか『『大品般若(だいぼんはんにゃ)』とよばれる二十七巻の「摩訶般若波羅密経」や、『小品(しょうぼん)般若』とよばれる十巻の同名の経なども重要で、よく用いられている。

 じつは『『大般若』の六百巻というのは、このようないろいろの般若経を集めて、一まとめにしたもので、現代風に言えば、さしずめ般若経全集といったところである。すなわち、『大般若』は初会から十六会までに分かれているが、その一つ一つが元来完結した経典だったわけで、たとえば『『大品般若』は第二会に相当し、『金剛経』は第九会に相当する。
 『会(え)』というのは法会あるいは法座ということで、仏の説法を聴聞するために集った集会をさす。世尊が、ある時、ある場所で説かれた教えを一会と勘定する。したがって[大般若』十六会は、別の言い方をすれば、十六回にわたって行われた「般若波羅密」についての説法の集大成と考えてもよいであろう。

 仏さまは、よほどこの「般若波羅密」ということをだいじに考えられたのであろう。何度もくりかえしくりかえし、ある時は長く、ある時は短くその教えを説かれたというわけである。
 そのような、般若波羅密についての教えのうちで、一番短いのが『般若心経』なのであるが、しかし、じつは、『般若心経』は『大般若』六百巻の中には含まれていない。あまりにも短編なので省いたのかどうかは知らないが、その成立から言うと、『大品般若』の原典あたりから、文字どおり要文を抄録して編集したものであるらしい。
 『大般若経』は、玄奘の訳をはじめとして、七種の異訳が伝わっているが、羅什訳の存在からみて、おそくても四世紀にはすでに成立していたようである。

 ここで、少し「お経」の形式について触れておきたい。
 「お経」は<如是我聞(にょぜがもん)>ではじまり、<信受奉行(しんじゅぶぎょう)>で終る」とは、よく言われることであるが、世尊が、いつ、どこで説法し、その会座に誰がいたかといったことを記した「序文(じょぶん)」と教えの内容をなす主要部分としての「正宗分(しょうしゅうぶん)」と、その経説の宣布の委嘱などを含み、「聴くもの皆おおいに歓喜して、信受奉行せり」といった句で終る、「流通分(るつうぶん)」の三分よりなるのが通常の形式である。

 この形式と照らし合わせると、『般若心経』には、如是我聞もないし、説時説処もないし、結びの部分もない。したがって形式的には、はなはだ不完全な経典だといわざるをえない。
 抜粋、編集したものだから、前後がないものだとも考えられるし、エッセンスだけを説いているのだから、形式はどうでもよいということかも知れない。
 しかし、漢訳七種のうちで、羅什訳と玄奘訳を除く五訳は、ちゃんと如是我聞等の序分や、流通分を具えている。一般にこの形式の整った方を、「大本」あるいは「広本」、中心部分だけのものを、「小本」あるいは「略本」とよんでいる。

 この広略は漢訳だけのもの、つまり、漢訳に際して省いてしまったというわけではない。それはサンスクリット写本にも、広略二種あることで知られる。ただし、古い訳は皆略本なので、広本は形式を整えるため、後に増広されたものであろう。サンスクリットの写本のうち、小本の代表としては、わが国の法隆寺に伝わっている「貝葉本(ばいよう)」がある。
 この写本は、現在帝室御物として国立上野博物館に保管されているが、日本の将来されたのが六〇九年といわれており、書体からみても、『般若心経』の写本としては現存最古のものである。
 このほか、最澄や円仁も写本を持ち帰ったといわれている。いずれも原本は失われたが、それを転写したものが現代まで伝わっている。二人の名をとって『澄仁本』という。
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         高崎直道著『般若心経の話』曹洞宗宗務庁発行 より

Monday, July 18, 2016

池内 了氏の文


宇宙は「無」から生まれたのか?

今年の私のブログは「池内 了氏の文」から始めることにしました。それはわれわれの今年の活動は池内氏が掲げるテーマにより近く、しかも非常に刺激し、しかも最近の科学の開発された状況を丁寧に教えて下さるからです。しかし、あまり氏の研究成果に甘えてばかりおれない。それで「池内氏の文」のタイトルはこの5回目を最後とします。
そして、われわれがいちばん関心を持っている、上の「宇宙」と「無」のテーマについて池内氏がどのように考えていらっしゃるか、池内氏の以下の文を参考にしながら、われわれの仕事を前に進めて行きたい。
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「量子論」と「一般相対性理論」が結びつくと----------

 この宇宙は、3次元の空間と1次元の時間のなかに、次の三つの物質(あるいはエネルギー)が存在していると考えられている。

   「バリオン」でできた天体
   重力を支配する「ダークマター』 
   仮想的な「ダークエネルギー』

 
 観測事実としての宇宙膨張を認めれば、時間軸を逆にすると、必ず有限の時間で宇宙のサイズがゼロになる時点に行き着かざるを得ない。つまり、宇宙は有限の過去の、ある時間に誕生したことになる。では、宇宙はどのようにして誕生したのだろうか?
 もし、なんらかのものから宇宙が誕生したとするなら、それがどのようにして誕生したかが問題となるなら、「ニワトリが先か、卵が先か」の関係と同じで、答えは出てこない。結局、物質やエネルギーなどが何もない状態であ「真空」から宇宙は誕生したとせざるを得ないのだ。
 
 さらに、この場合には、時間も空間もない。空間(宇)や時間(宙)の誕生そのものを問題にしているのだから、それも考えてはいけない。このような状態を「無(む)」と呼ぶことにしよう。
 時間・空間・物質(エネルギー)のすべてが、「無」の状態から宇宙が誕生したとしなければ、本来の宇宙創成論にならないのである。もし、どれかが存在する状態から出発するなら、その起源がやはり問題となるからだ。

 しかし、「無」から「有(ゆう)」の宇宙が生まれるだろうか?
なんだか禅問答みたいだが、考えるヒントはある。宇宙誕生時は、極限まで物質が潰れた状態と考えられるからミクロな状態では物質は量子論的な状態になり、量子論の世界はマクロな古典物理学の世界の常識が通用しないことである。

 たとえば、量子論の世界では、物質の位置(空間点)と運動量(位置の変化率)、エネルギーとそのエネルギー状態にある寿命(時間点)は、それぞれ確定せず、不確定性関係で結ばれている。また、時間や空間は、絶対的なものでなく、物質の存在や運動状態によって相対的に変化すると考えるのが「一般相対性理論」なのである。
の立場
 もし、量子論と一般相対性理論が結びつけば、時間・空間・エネルギー(物質)がたがいに結び合い。たがいに入れ替わり得る(ゆらぐ)ということになる。そのような状態は、確定した時間や空間やエネルギー状態に生きるマクロ世界に私たちにとっては認識できないから。「無」でしかない。しかし、物的な作用はそこに生じているのである。

 といっても、量子論と一般相対性理論を結びつけた「量子重力理論」は、まだ完成していないから、私たちは、このよう「無」を取り扱う方法を知らない。そもそも、そこに流れる時間は、私たちが使う時間とは違っているのだから、どのように時間につながっているのか、いないのかすらわからない。
 といって、黙って拱(こまね)いていてもしかたがない。現在の私たちが知っている物理学を無理矢理延長して、なんとかそれらしい宇宙誕生劇を描けないものだろうか。



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これに対する私の“禅問答”ならざる、禅の立場からの考えを次ぎのウログで展開します。

Wednesday, July 13, 2016

アルトー館公演



北山研二さま

ブログが通じないということで、昨日は随分悩みましたが、よく調べましたら
メールでアドレスをペーストしたとき、ズレが生じ、scorpio oikの間のーが消えていたのです。たいへん失礼いたしました。

なお、一昨日にお送りした、アルトー館9月公演の演技者宛のアドバイスとして文、「華厳経に述べられている「華厳観」による演技方針」の説明とその全体選出方針に関する注意事項は、演出者に対しても、もっと全体的な説明が必要なわけで、あれでは安易な伝達メモに終っており、十分に納得できたか危ないものです。

しかも、あれは最初の演劇、第1部を含めた3部構成のダンス作品の中の、その第2部の京都の龍安寺の枯山水の「庭」をテーマにしたもので、その砂地の庭に置かれた神霊を呼ぶ岩の代わりに人間の身体を置く構想なのです。
そこで発生する「場」の問題に取り組むことからこの仕事が始まったのですが、この後に続く、第3部と、序として最初に付け加えられる予定の第1部の演劇の部については追って説明致しますが、この企画は、昨年10月のアルトー館公演のテーマ的には後を追うもので、自然とか宇宙とか、また、今回は昨年の「智慧」につづいて第3部に至っては、老子の「無」の問題にアルトの演劇論なども絡んで来るという、たいへんな難問題を抱え込んでいるのです。

そしてこのような難問だらけの作品を提出して、皆で考えて行こう、と演出のほかに体調不調を理由に出演も放棄した自分としては責任を大いに感じて、その作品内容と資料及び制作進行方法についてはひたすら奉仕の構えで努力せざるを得ない立場に追い込まれ、関係者一同のこの公演制作に向ってのいろいろな意見交換と制作検討の場として今年はこのブログを中心に置くことにしましたが、出発早々にまず、事の説明の丁寧さに欠けていたとを反省し、あらためて「制作に関わっている全員に万全の奉仕精神で事に当たることに決めました。

それで、先日の最初の第2部の説明に当たって、一作日のブログで欠けていたものとして、もう1人の出演者の蒼さんのことがあります。
なぜ最初のブログでの第2部の説明で彼のことに触れなかったかといいますと、あの日は最初の岩を演じているときの3人のダンサーの演技の、天台宗の座禅の「止・観」の観る者と演じる者との交換、つまり演技者が観客の観る眼に立って、もはや魂が身体の背後に抜け出て、身体が完全な「モノ」に変じていて、しかも観ている者の側に反応して操作するという、正しく岩が神を呼ぶ神霊的なものを演じる第1場面に関しては説明なしに送ってしまったのです。

次に3人のダンサーが立ち上がって、砂地を歩いて、いよいよ3人が別々に、そのキャラクタ−が別々に、華厳宗の修錬を通じて、そのキャラクターなりの演技を行ってもらおう、と思ったのです。
というのは、自分の五臟六腑に拠らない演技というのは、深みがないからです。
それで木星の相良さんには華厳観の“海印三昧”を、高橋さんは金星ですが、修行として2つの華厳観のつながりとなっている、その後の方をやってもらうことにしたのです。

では、第2部の3人のダンサーのうち、蒼さんには何にも触れなかったのは何故かと申しますと、彼のキャラクター水星なのですが、修行としては彼だけは別で、華厳宗ではいちばん修行に打ち込んだ、京都佐賀の高山寺の明恵上人をやってもらいたかったのです。というのは彼は、10月半ばには大磯の神社で私の代わりに“耳無し芳一”を演じなくてはならない立ち場にあり、そして明恵こそが実は“耳なし芳一”なのです。
そして、すでに私は蒼さんのために本屋に講談社文芸文庫の『明恵上人』白州正子を注文しているのです。

たとえば、この本の中で白州正子氏は、明恵上人のことを次のように紹介しています。
「伝説を造り出したのは、当人の力といってもよく、それより上人は信仰の深い父母を持ち、特に武士の家に生まれたということが、将来人間を形成する上に、大きな影響を与えたように思います。
『仏教修行」はけぎたなき心あるまじきなり。武士などはけぎたなき振舞しては、生きても何かせん』(遺訓)
 当時、武士道と名づけるものは、未だ成立されていなかったでしょうが、明恵の生活態度には、僧侶というよりはるかに武士的な、いさぎよいものがあり、既に四歳の時、こんなことをやってのけました。」
それは父がたわむれに烏帽子を着せてみると、よく似合ったので、「形美麗なり。男になして、御所に参らせん」と口走ったのに対して、法師になれないなら、いっそのこと方輪者になろうと縁側から転げ落ちるのですが、僧侶になった後には、身の周りの女性をさけるため、自分の右耳を切りとってしまうのです。
ここまで来ると、もはや華厳観などの修行は必要としないのでしょう。


Tuesday, July 12, 2016

アルトー館公演



相良、高橋、山下さんに

『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』から

「ただ存在を構成する要素だけがあるとみて、実体的な自我を否定すれば、八種の瞑想力を観想して、六つの不可思議な能力が得られる。十二の因果関係を体得すれば、実体的な自我は存在しないという智慧によって根源的な無知のもつ可能性をのぞくことができる。
絶対の慈愛の心をもって、万有はただ識のみとしてあらゆる認識の対象の実在を否定すれば、煩悩と所知との二つの障碍を断ち、迷える者の心を仏の智慧にかえることができる。心の絶対の本性をさとり、唯一の空無を知って思慮分別を断つならば、心はしずまって絶対で現象を離れたものとなる。

天台で教える一道を、本来清らからかなものと観想するならば、観自在菩薩はなごやかによろこばれるし、真理をもとめる心をおこしたとたんにさとりの世界を思念すば、普賢菩薩はほほえまれるにちがいない。ここにおいてか、こころの外のけがれはすべてなくなり、荘厳な曼陀羅世界はようやく開示される。」

及川の註=上の文章は空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の中の一文です。この空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』は華厳教と密教をつなぐ役割を担って書かれたものなので、あえてこの一文をここに掲げます。



相良さんへ

最初の岩の後、砂の上を歩き、やがて立ったまま“樹”に変身し、やがて華厳観の一つ「海印三昧(かいいんさんまい)」に入ってゆく、その後“観音”の踊りとなる。この部分は独りづつ踊り最後に3人がどのような場の構図を描くかが問題です。
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『華厳経』のなかでは、海印三昧(かいいんさんまい)を海のような境地のなかにしるした最も深い三昧というように使っているが、『妄尽還源観(もうじんげんげんかん)』 の海印の解釈は独特で、海印とは真如本覚なりといい、『起信論』の影響を強く受けている。「妄尽心澄 万象斎現(もうじんしんちょう ばんしょうせいげん)」、こういう状態だというのである。
妄念が尽きると心が澄みわたる。そして心が澄みわたった境地のなかに万象、あらゆる事法界(じほっかい)のものが斉(ひとし)く映現(えいげん)しているのだと説明した。それは時間的、空間的にすえてに万象である。そうすると過去があらわれてくる、未来があらわれてくくる。空間的には地球だけでなく、金星の姿まで写ってくる。時間的には無限の過去から無限の未来がここにあらわれてくる。そういう状態を「海印三昧」というのである。

及川の註=この中の「万物斉同(ばんぶつせいどう」は、元は“荘子”の中心思想なのです。座禅によってそれを修得できると言われていますが、その前に海のイメージを描かせる、というのは巧い方法です。


高橋さんへ

最初の岩の演技の後、砂の上を歩き、やがて立ったまま“金”のキャラクターに変じ、かるく動く。その後「華厳観」の瞑想にに入ってゆくのだが、最初
の、人世のあらゆる生き方の経験をして、自分の本然の相(すがた)を見い出す“理事無礙“の修行の段階を既に経た今は、次ぎの“事事無礙“の華厳三昧に入るのです。これを各人が持つ“仏性”の展開の場と考えてもいい。
そして、この場合は、普賢が持つ“仏性”の華を思い切り開かせればいいのです。それは“大悲”の華です。
普賢の動きについては、『仏像のすべて』花山勝友を参照してください。

この部分は独りづつ踊り、最後に3人がどのような場の構成を描くかが問題なのです。


Monday, July 11, 2016

池内 了氏の文


昨日の7月10日の参議院選挙は自民党の大勝に終った。言うことなし。独り、立つこともなく、全身に気力を見い出せず寝たままで、とてもブログを打つどころではなかったのです。

先のような文を書かれていた池内氏は、当然このような結果になることを予測されておられたでしょうが、この結果に対して、今どのような気持ちでいらっしゃるか。
私が尊敬する学者で、日本の行方をつねに心配していらっ しゃる山折哲雄氏は、どのような感想をお持ちなのか、とても知りたい。それにアメリカから日本に移籍されたキーン氏の意見も。

友人の評論家の宮田徹也氏などは、発表の前日から結果を予想して燃えていたのですが、その後が心配です。
私は昨日から今朝にかけて考えこみ、これは、やはり心あるアーティスト仲間に働きかけて、相当な精神とやる気の構えで準備して立ち向かわないと、とても勝てないと思いました。
それには、これからは真心をもって誠意のある仲間と話し合うことが必要です。そして遠大なる志をもって、事を秘密裏にすすめることです。
そこで、私は取りあえず、このブログを10項目の種別に分けて話題を提供し、昨年とはちがった形でアーティスト仲間と連絡をとり合って、闘ってゆくことにしました。

しかし、折角、池内さんの論説とその著書に感動し、それを起点としてこの秋からの仕事に立ち向かおううと思っていたので、この「池内 了氏の文」という最初の項目がこのままで終る、というのも何か淋しい気がするのです。
それに、またこの池内さんの書かれたものに巡り会えたことが、私の視野を思いがけなく開いて下さったので、このまま次ぎの項に移るのが。何か勿体ない感じがするのです。

それで、この項目はこの日に明日を加えて5回とし、これからの出発の踏み石としたい、と思います。

Thursday, July 07, 2016

池内 了氏の文

 今年の私の仕事は、この池内 了氏の2つの文章から、反省をこめて事を慎重に始めることにします。
 昨年のアルトー館の10月と11月の明大前キッドでの仕事は、結論として「“認知”から“動き”へ」のテーマとしてわれわれを2016年へと送り込んだのでした。

 しかし、2016年という年は、池内 了氏の前掲の引用文が暗示するように、日本にとって、また世界にとって生易しい年ではなく、それはポスト モダンの後を継ぐテーマを超えるものでなくてはいけないのです。
 そして、われわれに現在、要求されているものは、ポストモダンの後のことでも、戦後70年のことでもなく、さらに遡ってモダニティからの視野、あるいは近代そのもの、もしくはもっと差し迫った地球そのものの問題、あるいは太陽圏に棲む生物全体の問題でもあるのです。
 
 それほど、これまで生温く、安易に過ごして来た自分に、ふかく恥を感じ、今後の道を模索あするほかないものと、意を決する次第です。

 今後、このブログによって皆さまの意見を参考に、悔いのない仕事をいっしょにつづけて行きたいと思っておりますので、よろしくお願い致します。
                            及川廣信 

池内 了氏の文

宇宙に終りはあるか?


宇宙は膨張するのか、収縮すのか?
 
宇宙は現在、膨張している。さて、宇宙は、このまま永久に膨張を続けるのか? それとも、いつか膨張が止って収縮に転じ、潰れるのか?
    前者の場合、宇宙に終りはなく、後者の場合、有限の寿命で宇宙は死を迎えることになる。このような宇宙の最終的な運命については、理論的に予言できることではなく、観測によって判断するしかない。
 宇宙の運動は、ロケットの運動と対比して考えることができる。ロケットの運動を記述するニュートンの運動方程式は、「無限の彼方に飛び去ってしまう」ロケットも、「いつたん上昇してから落下してくる」ロケットも同じように記述している。実際のロケットがいずれの運命になるかは、個々のケースで速度と重力の兼ね合いを調べねばならない。宇宙もそれと同じである。前者が永遠に膨張を続ける場合、後者がいったん膨張が止ってから収縮に向う場合に対応するのだ。
 宇宙の運命を判断する場合、いくつかの観測の方法がある。
 そのひとつが、宇宙空間が膨張することによって生じる「銀河の運動エネルギー」と「銀河間に働く協力エネルギー」の大きさを比較する方法である。もし運動エネルギーが勝(まさ)っているなら、全エネルギーがプラスになり、宇宙は永遠に膨張を続けることになる。
 そこで、運動エネルギーと重力エネルギーの大きさを独立に観測して、その大きさを比較する必要がある。運動エネルギーの大きさは、ある距離内の銀河の後退速度(宇宙膨張の速度)を測定することで決定できる。この場合、物質としては星や銀河となって輝いているパリオンだけでなく、ダークマターも含めなければならない。


 いけうち・さとる
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上の記事は、『科学はどこまで進化しているか』(祥伝社新書、2015年)より引用させて頂きました。

池内 了氏の文


     日本という国の
     再点検を。
     2016年の勝敗が
     日本の分岐点になる
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     池内了(天文学者・宇宙物理学者)

 今、おそらく日本の現状について、心ある人は誰も楽観していないだろう。このまま行けば、軍国主義が日本を覆い尽くし、憲法が改悪されて立憲主義・平和主義の支柱がなぎ倒され、アメリカに従属して世界に自衛隊という名の軍隊が派遣されて、日本は戦争に巻き込まれる。そんな想像が現実化しそうな雲行きであるからだ。

 それを阻止できるかどうか、2016年は決定的な年になるのではないだろうか。私たちは性根を据えて安倍内閣と対決しなければならない。それができなかったら、日本の行く末に対して取り返しのつかない禍根(かこん)を残し、これから育っていく子どもたちの未来を奪うことになるのは確実である。このことを真正面に見据えて、現代の動きを逆転させるための運動を構築すること。それを今年の私達の最大の目標とすべきなのだ。
 しかし、なぜ日本がこのような状態になったのか、そのことを真摯に検証する必要がある。アメリカとの同盟関係を強化するなかで、集団的自衛権行使容認の閣議決定という小手先の策で戦争法を成立させ、憲法無視の軍事化を推進し、武器輸出やTPPや税制改革や原発再稼働などによって大偉業優遇をいっそう強め、消費税の増税や福祉・年金切り捨てによって庶民の生活を脅かし、特定秘密保護法や盗聴法やマイナンバー制で国民の監視と情報収奪を強め、沖縄県民の願いを踏みにじって辺野古への米軍基地移転を強行する。そんな安倍内閣の数多くの悪政が罷り(まかり)通っている。日本国民が、それを容認してきたのも事実である。さらに、防衛費が5兆円を越える一方、日本の借金が1000兆円を上回る事態になっている。原発の放射性廃棄物と同様、私たちは厄介なものは後世に先送りすることを平気でおこなっているのだ。
 これらを考えてみれば、今私たちが採るべき方向は、私たちの生き様を再点検しつつ、未来世代への責任という倫理的な観点で社会と政治に対決することではないだろうか。そのような厳しい目で安倍内閣のやり方に厳しい批判を加えて退陣を迫るとともに、具体的に今年の参議院選挙(自民党は憲法改悪・軍国主義化を一気に実現すべく衆参同時選挙い
を目論んでいるようだが)で、自公政権にストップをかけることである。その勝敗が日本の大いなる分岐点になることは疑いない。
 現在の政治趨勢を逆転させる、それこそが16年を生きる君たち、私たちの最重要の課題ではないだろうか。

 いけうち・さとる
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1944年生まれ。理学博士。名古屋大学名誉教授。近著に『科学・技術と現代社会 上・下』(みすず書房、2014年)、『科学はどこまで進化しているか』(祥伝社新書、2015年)など。
     上の記事は『DAYS』2016年2月号より引用させて頂きました。